何年か前のクリスマス・イヴのこと。
著者も、本作『クリスマス・イヴ』の中に出てくる登場人物たち同様に、雪に彩られた別荘地に建つ、ある作家の瀟洒な山荘に招かれたのでした。
夜になって到着したその建物には、なぜか明りも人の気配もありませんでした。不審に思ってリビングに足を踏み入れると、そこはメチャクチャに荒らされていて、壊されてそこらじゅうに散乱している家具の間には、なんと血塗れの死体が転がっているではありませんか。そして、そのあと突然現れた殺人鬼によってもたらされた、身の毛もよだつような恐怖体験の数々といったら……。
──というのは、もちろん、小説の中だけの話です。現実の世界のほうのリビング・ルームには、温かい照明の中に最新のAV機器が整然と並び、血塗れ死体の代わりにクリスマスの御馳走が供され、殺人鬼の代わりにビートルズのジョージ・ハリスンを思わせるスリムな体躯に柔和な笑顔のその家のご主人が、筆者を歓待してくれたのでした。そのご主人というのが、何を隠そう、本書の作者岡嶋二人の1人、井上夢人さんだったのです。
岡嶋二人の1人──こうして書いてみると、正しいんだけれど、なんか妙ですね。ここで、本書で岡嶋二人の作品に初めて接する読者のために整理しておくと、岡嶋二人というのは、井上夢人と徳山諄一の2人による合作チームのペンネームなのです。
岡嶋二人は1982年に『焦茶色のパステル』で江戸川乱歩賞を受賞してデビューしました。以後、『チョコレートゲーム』や『99%の誘拐』、『そして扉が閉ざされた』など、斬新なアイディアのミステリを続々と発表してファンの注目を浴びていましたが、89年の『クラインの壺』をもって、コンビを解消しています。
合作というと、音楽界では、ロジャース&ハートの昔から、パート・バカラック&ハル・デヴィッド、そして言わずと知れたビートルズのレノン&マッカートニーまで、恒常的に行われていることですが、小説の世界では(エラリー・クイーン、ボワロオ&ナルスジャックなどのごく少数の例外を除いて)珍しいといえるでしょう。
読者の立場に立ってみれば、どんなやり方で合作したのか気になるところですが、その辺りについては、合作チーム岡嶋二人の誕生から解消までを、井上さん単独で綴った実に興味深いエッセイ『おかしな二人』(講談社)の中に詳細に記されています。
それによると、合作の方法は、大雑把に言って、徳山諄一の出したアイディアや材料を2人で討議して練り込み、それを井上夢人が小説の形に執筆する、というものでした。しかし、そのシステムは次第に変質し、コンビ解消直前には、井上夢人が単独でアイディアと執筆を兼ねるという事態に至ります。
本書『クリスマス・イヴ』は、そんなコンビ解消直前の時期の89年に発表されたものです。そんなわけで、(正確にはどうだかわかりませんが)この作品は、井上夢人が主導権を握って単独で書いたもの、少なくとも、岡嶋二人の作品の中でも井上カラーが色濃く出たもの──と筆者は邪推しています。
先の『おかしな二人』の中に、本書を執筆する際の合作チームのやり取りについて触れている部分があるので、ここで引用しておきます。
その年の「別冊婦人公論冬号」に、僕たちは『クリスマス・イヴ』という作品を書いた。映画『13日の金曜日』のような、冬の別荘地で殺人鬼にただただ追い回されるというようなホラー小説だった。(中略)僕と徳山の間に議論はほとんどなかった。わずかに、動機を問題にする徳山に対して、僕が「動機なんていらないよ。この小説の眼目は〈恐怖〉なんだ。とにかく、脅かしの連続。それだけでいい。あとはなにもいらない」と言っただけだった。
この作者自身の弁で、本作が井上単独作品に限りなく近いものであることが窺えます。ついでに言えば、もうこれ以上解説する必要もないほど、簡にして要を得た内容紹介になっています。──困りましたね。ミステリ小説の分析においては人後に落ちないさすがの筆者も、作者の言葉には勝てません。でも、それでは解説者の任を果たせないので、気を取り直して、もう少し説明を加えさせてもらうことにします。
本書『クリスマス・イヴ』には、岡嶋二人の他の代表作に見られるような、重層的な企みのアイディアも、特殊な業界などを扱った舞台ヘの興味もありません。しかし、だからこそ、かえって浮き彫りになってくる岡嶋作品の別の特長が見えているように思います。
それは、素晴らしいサスペンス作家としての資質──ということです。
作者自ら語るように、本書は、「ただただ追い回され」「脅かしの連続」に終始するノンストップ・サスペンスになっています。そして、なるほど潔いほど「それだけでいい」という態度で書かれています。
サスペンス発酵を支えているのは、スピーディーなストーリー展開とテンポのいい会話です。このあたりは作者(井上夢人)が、以前、映像関係の仕事をし、シナリオ・ライターの経験を持っているということもあるのでしょうか。そう、そのまま映像化できるのではと思わせる仕上がりなのです。
映像化といえば、作者は映画『13日の金曜日』を意識しているようですが、(あえて、作者の弁に逆らえば)ここには一連のスプラッタ・ホラーに付き物の血みどろの残虐性はさほど感じられません。岡嶋=井上作品には、総じて、そうしたエモーションに訴える泥臭さよりは、知に訴えるゲーム性のほうを感じてしまいます。本書でも、殺戮場面の恐怖よりも、むしろ殺人鬼と犠牲者たちの間のあの手この手の駆け引きや攻防の面白さが、思わず頁をめくってしまうリーダビリティーを生み出しています。
この作品に恐怖を感ずるとすれば、それはやはり殺人鬼の存在でしょう。彼の行状が怖いというのではありません。彼が殺戮を繰り返す理由も、本人の背景もまったくわからない、というところが怖いのです。そして、その正体不明の殺人鬼の化身のようなジープの不気味さ……。筆者は、リチャード・マシスン原作、スピルヴァーグ監督初期の傑作『激突!』の殺人トラックのことを思い浮かべました。こうした「動機なんていらない」、あえて書かない、という一種無機的な感覚に、本書のモダン・ホラーとしての性格を見出だせるのではという気がしています。
ビートルズのような稀有な合作チーム岡嶋二人は、そのまま日本のミステリ史の1章になるほどの優れた作品の数々を残していますが、コンビ解消後も井上夢人さんのほうは単独で斬新な作品を発表し続け、こちらも岡嶋名義とは別にミステリ史の1章を捧げたくなるほどの活躍ぶりを見せてくれています。
ビートルズが解散して、レノン=マッカートニー作品は聞けなくなっても、ジョン・レノンはソロになって、バンド時代よりもさらに自由で素晴らしい歌を歌い続けているということです。岡嶋作品を読み尽くされた方は──いや、現代ミステリの最先端を知りたかったら、ぜひ、井上夢人ミステリを手に取ることを、お勧めします。