解説・嘘のツボ

管 浩江

HOME | 岡嶋二人 | クラインの壺 | 解説_管 浩江

 思い出してみるといい。本書単行本の初出は1989年。パソコンをまだマイコンと呼ぶ人がいた。パソコンの動作周波数はたったの16メガヘルツで、ようやく初めてのノートパソコンが登場した年だ。ウィンドウズ・バージョン2はほとんど普及しておらず、MS-DOSですら評判の悪いバージョン4に乗り換えず3を使う人が主流。アップルはマッキントッシュIIの時代だった。
 DOS派だった私は、当時、マウスを持っていなかった。コマンドでプログラムを起動するのが当たり前だったからだ。グラフィックに強いと言われたマックでさえ、この年にようやくフルカラー表示の能力を得たばかり。ゲームに特化した専用機ですら、ファミコンの独壇場であり、「ドラゴンクエストIII そして伝説へ…」が最新のゲームソフトだった。
 考えてみるといい。「ドラクエIII」のあのグラフィックが精一杯だったこの時代に、本書では〈クライン2〉なるゲームシステムが描かれているということを。
 冒頭、ゲームシナリオ「ブレイン・シンドローム」の作者である上杉彰彦は、「K1(ケイワン)のテスト用プロトタイプ」と称される「手袋か、あるいはナベつかみにコードをつないだもの」に腕を差し入れる。このコード付き長手袋は入出力装置で、ディスプレイ内の画像を操作したり、データとしてしか存在しないものに触れる感覚を得られる。しかも、装着感は皆無で、例えば「手を水に浸している」といった繊細な触り心地も体験できるのだ。
 もう1度、記憶をたぐり寄せてみるといい。VPLリサーチ社が手袋型の入出力装置「データグローブ」を用いる世界初のバーチャルリアリティ・システムを発表したのが1987年、同様のファミコン用コントローラ「パワーグローブ」が発売されたのは、本書初版刊行後の1990年夏のことなのだ。身に着けていることを感じさせないウェアラブルな入出力装置は、2005年の現在においてもまだない。残念ながら水に触れる感覚をデータで再現することもできない。
 ファミコンの流行とパワーグローブという〈当時の今〉を、全身を無感覚データスーツで包み込んで味覚までをも再現するバーチャルリアリティ・ゲームにまで敷衍(ふえん)してみせた岡嶋二人は、類い稀なるSF的才能の持ち主と言えよう。

おかしな二人──岡嶋二人盛衰記』によると、この頃はほぼ井上夢人ひとりで仕事をしていたらしい。岡嶋二人名義の遺作である本書は、また、今日(こんにち)一読すれば、たちまちこれが井上夢人のスタート地点のひとつであることが判る。
 彼は、1996年の『パワー・オフ』において、いかにもありそうなMS-DOSバージョン7の存在する架空世界を組み立て、自己増殖するコンピュータウィルス、つまり人工生命との攻防戦をサスペンスフルに描き切った。
 2001年の『オルファクトグラム』は、姉を殺した人物に頭を強打された主人公が尋常ならざる嗅覚を得、その能力で殺人者に迫るという魅力的な作品である。
 人間の能力を超えた嗅覚は、文字通りの意味で「超能力」と言い換えることができる。すると、バーチャルリアリティ・ゲーム、生身の人間に害を及ぼすコンピュータウィルスなどの題材を真っ向う正面から扱った井上作品は、紛(まご)うことなきSFであると言えよう。ミステリ界で名を馳せている彼にあえて別ジャンルの看板を進呈するならば、本書こそ「SF作家・井上夢人」の端緒に位置されるべきものなのだ。
 私はなにも、SFとミステリの間に彼を立たせて腕の引っ張り合いをしようというのではない。こうしてふたつのジャンルを並べてみることによって浮かび上がる「井上夢人の〈仮想(バーチャル)/現実(リアリティ)〉混淆能力」を讃えたいと思うのだ。

 SFジャンル及びSFファンが一般の人々から敬遠されがちな理由は、すぐに「これはSFじゃない」と口にするから、だとする説がある。
 私も身に覚えがないではない。一時は、UFOや宇宙船、ロボットや超能力者が登場したり、少しでも不思議な出来事を扱っていれば、すべてSFの名を冠せられていた。その結果、ただ馬鹿馬鹿しいだけの話も「所詮はSFだからね」と切って捨てられるようになり、SFファンを自称する人々は「こんなのはSFじゃない」と歯噛みする習性が身に付いてしまった。
 SFのSはサイエンスのSなのだ。指の先から光が出るだけならファンタジーだが、指先に埋め込んだ発光素子が生体エネルギーを増幅しているとなると、SFと呼んでもいいかなと思う。夜中に嫁の首が伸びて行燈の油を舐(な)めたり、後頭部にもうひとつ口がついていたりするだけなら怪談だが、遺伝子操作や未知の寄生体のせいなのだという論調なら、とたんにSFじみてくる。そもそも、SF的馬鹿らしさの象徴となってしまったタコ型火星人ですら、当初はSFらしい設定があったのだ。知能が発達しているから大きな頭、高度技術で生活が楽になったから身体は退化し、地球の重力の3分の1しかないから頭を支える部分は細くてよく、賢さは器用さの表われであるはずだから手の機能を果たすものの数は多いはず、というわけ。
 しかし一方で、「高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない」というA・C・クラークの言葉もある。形状記憶合金や無線LANやホログラムは一昔前の人々が見れば魔法に他ならない。現代でも、ある人にとって量子力学は純然たる科学であっても、私のように理解力に乏しい人間にはその方面から強い魔術の香りが漂ってくるように感じてしまう。
 このように、根拠のないただの嘘を馬鹿らしく感じる一方で、馬鹿らしい嘘に見えても科学的に無理とは言い切れないこともあるから、SFの定義は難しい。ひとことで言えば、現代科学を綺麗に踏まえた上での嘘であるかどうかでSF度が決まるのだが、人はそれぞれ科学知識の量が違うし、あまりにも壮大な嘘に感心するか爆笑するかの一線も線引きの場所が異なるから、最終的なものさしは自分の中にしか存在しないことになる。結局SFファンの間では、目の前の作品がSFであるか否かを峻別するのは個人個人のセンスである、という至極当たり前の言葉がジャンルの定義の代わりに一応のコンセンサスとして成り立つようになった。
 ここをお読みになっている方はミステリファンが多いだろうと考えて、SFについて詳しめに書いてみた。が、ミステリジャンルも状況はさほど違っていないように見える。フェアかどうか、本格と呼べるか、それぞれの読者がいろいろな作品を峻別している。
 興味深いのは、昨今流布している〈馬鹿ミステリ〉、通称〈バカミス〉という言葉だ。手掛かりと謎解きというミステリの体裁を持ちつつも、展開や解決があまりにも馬鹿馬鹿しかったり嘘っぽかったりすると、こう呼ばれるらしい。これはかつて、宇宙人やロボット、未来っぽい小道具が出てくるだけでSFだと称された作品群を思い出させる。馬鹿SFはかろうじて一部で「似非(えせ)SF」と賤称されるだけで、バカミスのような好意的な愛嬌のある呼称がつかなかったのが残念だが。
 SFにしろミステリにしろ、ジャンル名の前にバカが付くかどうかは、その作品が綺麗に嘘をついているかいないかによる。読者に「そんなはずはないだろう」と思われてしまっては、人を驚かせるための仕掛けは単なるご都合主義に陥ってしまうのだ。

 ミステリにおける不可能犯罪やSFにおける非現実を説得力を持って語るためには、万人が見知っている現実世界を少しずつずらして開陳していく能力が必要となる。これを持ち合わせていなければ、ミステリもSFも馬鹿らしい夢物語でしかなくなるのであり、必要とされる能力は非常によく似ているのだ。
 緻密なミステリで鳴らし、SF方面へのアンテナも鋭い井上夢人は、間違いなくこの能力を持っている。
 この作品のラストでは、多くの読者が身体が宙に浮かんでいるかのような感じを覚えることだろうが、それはみな、ファミコンやデータグローブの現実を無理なくずらして〈クライン2〉というシステムに読者を引っ張り込んだ順序正しき手腕があるからなのだ。15年前に書かれたこの作品のテーマは2005年の今となってはバーチャルリアリティを題材にする上で定番とも言えるのに、少しも古びず、むしろごまんとはびこるバーチャルリアリティ系似非SFを軽く凌駕する説得力と面白さを持っているのも、井上夢人の「〈仮想/現実(バーチャル/リアリティ)〉混淆能力」が長けているからに他ならない。
 物凄いけれどいかにも出現しそうな新ゲームという大枠を組み立て、その様子を読者が追体験していると感じるほど綿密に書き込み、登場人物のひとりが行方不明になるというサスペンスで引っ張り、手掛かりとなる卑近な小道具でフェアな手管の先に横たわる漠とした不可思議さを表現する──。読者は、主人公が作中で感じる〈クラインの壺〉の内外をさまようと共に、井上夢人が作った〈事実上の現実(バーチャルリアリティ)〉の壺の中に本当の現実素材が捏(こ)ね入れられているリアルさにくらくらするのだ。
 嘘をつく際のツボを心得ていなければ、こんなにスマートな作品は書けない。彼が稀代のエンターテインメント作家と呼ばれるゆえんである。

 さあ、みんなこぞって期待するがいい。井上夢人という新しいもの好きの作家が、今後どのようなSFやミステリを読ませてくれるのかを。私たちは現実と物語のあわいを柔らかに準備して、次の驚嘆すべき壺の出現を待とうではないか。