"期待の地平"という言葉がある。
ドイツの学者H・R・ヤウスが『挑発としての文学史』(岩波書店)の中で掲げた言葉だが、これは小説における読者の問題を扱ったものであった。わたし自身は大岡昇平氏の卓越したエッセイ「エンターテインメントの諸相」(1987年『世界』2月号)でこの言葉を知ったのだが、その内容を少し紹介してみよう。
たとえば科学上の革命を考えてみるとき、ある画期的な理論──ガリレオの地動説でもアインシュタインの相対性原理でもいい──それらはある日突然出来上がった理論ではなくそれまでの研究の積み重ねの上に成り立っていったものである。ヤウスの指摘は簡単に言うと、この科学史のパラダイムを文学史に応用したものと考えていいだろう。
つまり、それまで──19世紀における文学論、文学史というものは、まずいかに天才たる作者が物語を創造したか、このことがほとんど唯一の問題であった。続いてその作品を批評家が読んで断を下す、とこの過程の中には読者という要素は1歩おかれた状態にあったというのである。
そこへ読者という要素を導入し、作者の創造──読者の受容、その結果、両者の共振作用として趣味の変革が起こるという具合に捉えたわけだ。要するに、従来のように作品──批評という単純な系列ではなく、まず作品の生産があり、ついで消費者としての読者の存在を考え、そこから新しい作品への期待が生まれてくる──これを期待の地平という言葉で表したのであった。
もちろんそこには当然のことながら、話の筋の面白さ、文章のわかり易さ、主人公がはっきりしていること、そして社会的に切実なあるイデオロギーを、顕在的潜在的に持っていることなどが要求されたのはいうまでもない。
なにやら大層な言い方をしたわりには、誠にもって当たり前のことではないかと思われるかもしれないが、実はこの"期待の地平"こそがミステリーを含むエンターティンメントの繁栄現象を解くキーワードになると思っている。つまり、文学(この場合はもちろん大衆の文学という意味だが)とは批評家の言がその運命を左右するのではなく、読者と共に作り上げていくものだということを、改めて知らしめてくれたのだ。
余談になるが、そこで思い出すのは『大菩薩峠』の作者中里介山は、生前大衆作家として批評家連中には完全に無視されていたが、彼は部屋の四方に読者からの手紙を貼り、それを見つめながら黙々と作品を書いていたという。無論、戦争中には文学報国会にも所属することはなかった。読者とは、かくも作家にとつてはバネとなりうるという絶好のエピソードであろう。
そして本書の作者、岡嶋二人は現代にあって、このきわめて自明の理となった読者の期待の地平を、常に裏切らなかった、希有な存在といってよい。
1982年の江戸川乱歩賞を受賞したデビュー作『焦茶色のパステル』(講談社文庫)から、1989年の岡嶋二人名義のコンビ最終作となった『クラインの壺』(新潮社)まで、8年間、27作の作品はいずれも傑作の名に相応しい、謎と驚異に満ち満ちたものばかりであるからだ。
まったくもって、これほどいい意味で読者の期待を裏切り続けてきた作者は、ほかにいないのではあるまいか。
もちろん、これは彼らが常に読者のことを考えながら書いてきたからなのはいうまでもないだろうが、同時に書き手自らも読者の眼で自作に接してきたことも理由のひとつとして挙げられるかもしれない。といって、わたしは岡嶋二人にその創作方法や小説作法などを聞いたわけではない。単純に想像と直観で書いているだけである。
しかしながら、ふたりが同時に文章を書き上げているわけではないだろうから、ひとりが書き、もうひとりが読者となってそれを読んでチェックする、ぐらいのことは当然なされてはいたと思う。おそらくはこの時点ですでに、相当厳しい〈読者〉の要求があったとしか思えないのである。
というのは──物語を思いつく、あるいは内に秘めている人間はそれこそ無数にいることだろう。ただ、それを表現する方法を知っているかどうかが問題であるだけだ。が、そうした内に溜めているものを吹き出す力があったとしても、今度は話を回したりねじったりする力がないと、商品として読者には満足は与えられない。
たとえば物語と詩情というものを考えてみたとき──「去年王が死んで、今年王妃が死んだ」とあった場合これはストーリーである。ところが「去年王が死んで、その悲しみのあまり今年王妃が死んだ」となると、こちらはポエットであろう。
岡嶋二人の場合は、このストーリーを波欄万丈にする、いわば"ねじり"の力が途方もなく大きな作家であり読者であった。
コンビのひとり井上夢人が打ち出した「無格推理小説論」も、その観点から考えていけばなるほどと頷ける。本シリーズの前作『眠れぬ夜の殺人』(双葉文庫)の解説でも触れたことだが、ここで簡単にもう1度書いておくと──彼にとってミステリーとは、謎を解明していく過程の面白さが最も重要だというのである。その謎がどういう謎であるかは別に問題ではなく、トリックもさほど大きな要素にはならない。とにかく、ある謎を突き止めていくまでの過程だけが大切だとするのである。
これを先の王と王妃の譬えに当てはめてみると、去年王が死んで、王妃は悲しみのあまり狂い、不倫をし、事故に遭い、病いが癒えず、苦悩のどん底で……といった具合に王妃が死ぬまでに、いくつもの話を回す要素を入れ込んでいくわけだ。
ミステリーの場合は、そのことを逆側から〈解明〉していくことになるわけだから、王妃はなぜ事故に遭ったのか、なぜ不倫をしたのか、なぜ狂ったのか……これがつまり、謎解きの過程となっていく。その結果、言ってはナンだが(極論かもしれないが)王が死んだからという、実に単純なことが判明したとしても、それは構わないとするのである。謎の正体が稚拙なものであったとしても、それを暴く過程が面白ければいい。岡嶋二人(この場合は井上夢人)は、ひたすらにこの部分を昇華、高めていこうと邁進した作家であったのだ。
とはいえ、岡嶋二人は右に書いたような単純な謎を提出する作家ではなかった。
事実、本書『眠れぬ夜の報復』(初刊は1989年10月双葉社刊)もまた、相当に趣向を凝らした作品となっている。
前作『眠れぬ夜の殺人』もそうだったが、まず読者側に仕掛けるべき謎への複雑な解明過程があり、さらに登場人物が同じ作中人物に仕掛けていく不可思議な謎──といわば2重の物語構造が含まれている。そうした中で、まさにめくるめくようなスピーディな展開でストーリーが進んでいく。われわれ読者は、それをただ黙って心地よく楽しむもよし、あるいは岡嶋二人が仕掛けた謎の正体を見極めてやろうと挑戦するのもまたよしとしか言いようがない。それほどこの小説は粒が立っているのである。
菱刈長三率いる捜査0課──警視庁刑事部には11の下部組織が存在している。重大事件発生直後の初動捜査を行なう機動捜査隊が3隊。捜査の主軸となる1課から4課までの捜査課。それをサポートする鑑識課。さらに科学捜査研究所。そして広域犯罪などで他府県警や海外警察との協力を仲介する捜査共助課。刑事部全体の事務、教育を受け持つ刑事総務課がそれだ。これらのいずれにも属さない12番目の組織が捜査0課であった。
彼らが扱う事件は、刑事部長がどうにも扱いきれないと判断した難事件のときに限っている。しかも、それらの事件はいずれも解明が不可能と思われるものばかりであった。
そういう意味では、かの人気テレビドラマ『スパイ大作戦』の組織と共通項があるといえるだろう。不可能を可能にするメンバーは3人。
あえてストーリー内容の紹介はしない。ともかく、岡嶋二人が仕掛けた謎の流れに身を委ねてみることだ。
その終点には、"満足"の2文字が頭の中を駆けめぐつていることだけは保証しよう。