岡嶋二人の長編推理小説『チョコレートゲーム』(昭和60年)は、中学生の間で起こった奇怪な連続殺人事件の謎と、息子への疑惑に苦悩する父親の肖像を見事に浮彫りにした社会性豊かな秀作であり、昭和61年度の推理作家協会賞を受賞した記念すべき作品である。
この作品について作者は、こんなふうに語っている。
「半径数メートルの至近距離にある謎、そんなものを考えてみました。物語の主人公は父親。そして、謎は、彼の息子です。視界から消えてしまった息子を追って、主人公はやみくもに進みます。その末に見つけたものは……。最後までごゆっくりどうぞ」
この作者の言葉からもうかがえるように、この作品の新しさは、若い世代の生態を鋭くえぐった青春推理小説という側面を持つと同時に、中学生の間で起こった事件を自分の息子の問題として、苦悩しながら真相を追究して行く父親の姿を描いた本格的な謎解き小説である点にある。
性的非行や万引きなどの盗み、校内暴力など中学・高校生の生態を描いた青春推理小説としては、小峰元の『アルキメデスは手を汚さない』(昭和48年)を始め、皆川博子の『ライダーは闇に消えた』(同50年)、清水一行の『女教師』(同52年)、森村誠一の『凶学の巣』(同56年)などすでに数多くの作品が書かれている。
しかし、岡嶋二人の『チョコレートゲーム』に描かれている中学生を蝕む荒廃ぶりは、これまでのミステリーでは取り上げられたことのない種類のものである。
秋川学園大付属中学の3年生、貫井直之14歳が学校の近くの工場横の空き地で死体となって発見された、という事件の新聞報道を読んで、小説家の近内泰洋は、胸騒ぎを感じた。息子の省吾がこの2週間の間に何度も登校拒否を重ね、事件が起こった日には、家を明けて夜も帰らなかったからである。もしかしたら、省吾が、という不安と疑惑が泰洋の脳裏をかすめた。こんなふうに『チョコレートゲーム』は始まる。
この作品でまず感心させられるのは、作者がコンピューター時代の現代の中学生の生活ぶりをよく調べて書いていることである。
『チョコレートゲーム』が書かれてから2年後に出版された、子どもの人権弁護団編『子どもの人権110番』には、こんな相談例が載っている。
「中学2年の長男が学校へ行かず1日中ファミコンに狂い、カセットのお金をせびり、お金をやらないと、母親や妹を殴る蹴る、ガラスを割るなどの暴力を振るって困っている」
この相談を受けた相談員は、「アパートのファミコンとパソコンの置いてある狭い部屋の中で、昼間から布団をかぶっている彼に会いました」と書いているが、こういう中学生の生態は、『チョコレートゲーム』の初めの部分に描かれているものと、極めて似通っている。つまり岡嶋二人は、こういう中学生の実態を先取りして作品に取り入れているわけで、それだけに現実感があるのである。
ファミコンやパソコンなど機械と対話することにしか慰めを得られない孤独な中学生の生態は、この『チョコレートゲーム』によって初めて描き出されたといってよいのではないかと私は思う。
また、作者は、この作品で、主人公の作家近内泰洋に次のようにいわせている。
「自分の子供の頃と比べると、省吾の持物は驚くほど豪華だった。豪華であるにもかかわらず、それらの大半には存在感といったものがまるで感じられなかった」
戦争体験を持つ戦前派はもちろんのこと、戦時中飢えを体験した疎開派の世代である大人たちは、食べ物を残したり、使える物を捨てたりすることに強い抵抗感を持っている。しかし、飽食の時代に生まれついた若い世代には、そういう意識はない。金銭感覚も自ずと異なるのである。
深谷昌志は『放課後の子どもたち』の中でさまぎまな調査結果を踏まえながら、こんなふうに指摘している。
「現代の子どもたちが成人するまで、金銭の使い手、つまり、消費者として生活しているのがわかる。しかも、家庭の生活そのものが、全体としてみると、豊かになってきているので、子どもたちは、金銭の不足を気にかけることなく、消費してゆく。家庭の中に金のなる木でもあるかのように思ったとしても、無理からぬ気がする」
『チョコレートゲーム』の事件が起こる時代的背景には、こういうヤングの生活意識の変化があるわけで、作者は前半の部分で見事にこういう実態を浮彫りにしているように思う。
さて、こういう若い世代の考え方と行動は、たとえわが子であっても、主人公である父親の近内泰洋にも理解できない。つまり、存在自体が謎であり、そのために、不安と疑惑が生まれるわけである。
父親が探偵役、息子が容疑者、こういう構図の青春推理小説はこれまでになかったような気がする。
ミステリー的な視点からすると、題名に使われている"チョコレートゲーム"という言葉が謎として実に効果的に用いられている。息子の交友関係を調べて行く中で、泰洋は"チョコレートゲーム"という聞き慣れない言葉を耳にする。だが、だれもその意味を説明しようとはしない。
"チョコレートゲーム"とは一体何か?
この謎解きが事件を解決する鍵になる。
ミステリーの一種のトリックにダイイング・メッセージというものがあるのはご存じだろう。
ダイイング・メッセージとは、文字どおり被害者が死に際に残すメッセージのこと。つまり、犯人に襲われた被害者が死に際に、最後の力を振り絞って犯人を知らせる手掛かりを残すことを意味する。
大抵の場合、死にかけた被害者はすべてをいい尽くす力を持っていない。そのため、残されたメッセージは不完全でそれだけでは意味がつかめない。つまり一種の暗号のようなものになってしまうわけである。
こういうダイイング・メッセージを作品に多く採用したのは、アメリカの本格派の巨匠エラリー・クイーンだった。
とくに長編『Xの悲劇』(1932年)はその代表的傑作として有名だが、『チョコレートゲーム』でも、1種のダイイング・メッセージが巧妙に使われている。
この作品の謎の核心は"チョコレートゲーム"という言葉にあるのだが、実は、死んだ貫井直之が事件の前日、気が狂ったようにわめいていた「畜生、みんなジャックのせいだ」という言葉がこの謎を解く重要な鍵になるのである。
この言葉を残した時、貫井直之は決して死にかけていたわけではない。その点では、これを厳密な意味でのダイイング・メッセージというのは当たらないかも知れない。しかし、その一変種ということはいえると思う。
この作品では、"チョコレートゲーム"という言葉の謎の解明が、中学生の遊びの荒廃を暴露することにつながるわけで、近内泰洋は、真相解明の果てにまた悲しい事実に直面する。
しかし、著者は筆を抑えて、最後の結末をさりげなく、死者への鎮魂の深い思いをこめて終わっている。
『チョコレートゲーム』には、このほか、別のトリックも使われているが、それらが全体として無理がない。この点でも、優れていると思う。
ミステリー・ファンには、今さら解説の必要はないと思うが、昭和57年に『焦茶色のパステル』で江戸川乱歩賞を受賞した岡嶋二人は井上泉と徳山諄一という男の友人同士2人による合作者である。
ミステリーの世界では、アメリカの従兄弟同士のエラリー・クイーン、フランスの男の友人同士のボワロー・ナルスジャック、スウェーデンのおしどり夫婦のマイ・シューヴァル、ペール・ヴァールーなどさまざまな合作者の例があるが、日本で最も成功した合作者としては、文句なしに岡嶋二人が挙げられる。
受賞作『焦茶色のパステル』は、2人の対照的な女性が探偵役として活躍する見事な競馬推理小説だったし、『あした天気にしておくれ』(昭和58年)もサラブレッドの誘拐事件を扱ったユニークな競馬誘拐ミステリーだった。
その後、岡嶋二人はがらりと趣向を変えてテレビマン山本山コンビが活躍するユーモア・ミステリーの連作短編『三度目ならばABC』を始め、多彩な作品を矢継ぎ早に発表し続けているが、それらの中で、推理作家協会賞を受賞したこの『チョコレートゲーム』は、現代の一部の中学生の荒廃した状況を鮮やかに浮彫りにしている点で最もシリアスな作品の一つといえよう。
そういう意味からも、是非読んで頂きたい1編である。