解説

新保博久

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 A子さん。しつこいとお思いでしょうが、岡嶋二人についてもう少し話させて下さい。
 え? このまえ手紙を差上げたのはあなたにじゃなかったでしたっけ。まずいまずい。
 仕方がない。岡嶋氏のことを初めから説明しましょう。
 岡嶋二人は、そのペンネームから察しがつくように、実体はふたりの人間です。いや、作家がみんなペンネーム通りなら、例えば泡坂妻夫という名前は、夫婦合作になってしまいますが、そうではありません。岡嶋氏の場合、偶然にも二人なのです。
 本名は徳山諄一、井上泉という、それぞれ1943年、’50年生れの東京出身の男性同士です。エラリイ・クィーンをはじめ、海外では共作で推理小説を書くコンビが少なくありませんが、日本では岡嶋氏が最初でしょう。それだけに,岡嶋氏が’82年に『焦茶色のパステル』で江戸川乱歩賞を受賞してデビューしたとき、作品の良さもさることながら、共同執筆ということで大きな話題を呼んだものでした。
「時々、どうやって書くんだ、と人に訊かれます。ぼくらが質問を受けたうちの、大半がこれでした。珍しいものらしいんですね、これが」(「連想ゲーム」、『ミステリマガジン』’84年9月号)
 と岡嶋氏は述べていますが、この訊く側の気持ちは実によく分るでしょう。それは、必ずしも単純な好奇心からじゃない。1篇の小説はどのようにして生れるのか、じっさい自ら書いている同業作家ですら、自身でもよく分らない創作の過程を、ひとが分業しているのを見れば、少しでも解明できるのではないか。ちょうど思春期前の子供が、赤ちゃんはどこから来るのかと知りたがるように、推理小説関係者らが岡嶋氏に質問の矢を浴びせたに違いありません(つまり単純な好奇心かな、それは)。
 あるいは、2人がかりで愚作しか書けないのならどうでもいいが、岡嶋コンビはすこぶる出来のいい作品を生むのですから、自分も頭のいい子を生みたいと、教育ママ的関心が働くのでしょうか。これら罪のない覗き趣味的質問に応えるように、岡嶋氏は本書『三度目ならばABC』の連作を始める直前、「ダブル・プロット」(『小説現代』八三年七月号)という短篇で、作者自身を想わせる二人組の作家を登場させています。
 その中でいわく──
「ぼくらは2人で小説を書いているのだが、実際に原稿を書く段になると1人の作業になる。理由は単純なことだ。2本の手でペンを握ったら、文字など書きにくくてしようがない」
 この小説で"岡嶋二人"は、実際に執筆にかかる前に作品は細部まで出来上っており、「原稿を書くのは最後の仕上げで、その9割がたは根気と体力の作業なのである。つねに片方がこの作業を受け持つのは不公平だからということで、クジによって決めている」のだそうです。しかし、これが現実の岡嶋氏の創作作法だと信じ込むわけにはいきません。例えばこの時期、岡嶋氏はすでにワードプロセッサで執筆していたはずで、確かに2人で1台のワープロに向うのは、ピアノ連弾じやあるまいし、具合が悪いでしょうが、とにかく先ほどの引用からして冗談のようです。
 本当のところは、どうなのでしょうか。権田萬治氏との対談、いや岡嶋氏が入ると自動的に鼎談になってしまうのですが、その席での井上氏の発言を聞いてみましょう。
「一番正直な言い方をしますと、とにかく話し合いながら作っていくということなんですね。(中略)最近になってだんだん分担もはっきりしつつありますけども、まだ混沌とした部分があります。逆にぼくらの場合、自分らでも今どういうふうに仕事が進んでるのかわからないような部分がないといけないんじゃないか、と思っているんですよね。ですから、あるアイディアをどっちが出したかと聞かれると、ハテと思ってしまうことがある。きっかけは、こっちが出したのかもしれない。でも、それを膨らませたのはそっちかもしれないから、そうするとあのアイディアはどっちが作ったことになるんだろうと……」(「岡嶋二人、ひとりとひとり」、『IN★POCKET』’86年8月号)
 要するに、岡嶋氏ご本人たちにとっても、その作品がどうして生れるか、よく分らないらしいのです。まあそんなものでしょう、と引き下がってしまっては、解説者として立つ瀬がありませんから、今度は別な面からアプローチしてみることにします。
 岡嶋二人の著作は現在までに19冊、そのうち14冊が長篇小説です。著作リストは、この文庫の『開けっぱなしの密室』の解説に掲げた以降、最新長篇『ダブルダウン』しか出ていませんから、改めて並べません(おっと、あの解説はA子さんあなたに見られるとちょっとまずいのでした)。それらの長篇の特質として、殺人よりも誘拐が中心テーマとなることが多いのはそこでも指摘しましたが、もう一つ、主人公がペアである例が多いことも挙げられるでしょう。14長篇ちゅう8篇、半数以上がカップル主人公をたてています。表にしてみましょう。

焦茶色のパステル
('82講談社)
大友香苗
装飾品デザイナー。
競馬評論家の妻ながら競馬オンチ。
  綾部芙美子
競馬予想紙『パーフェクト・ニュース』記者。独身。
七年目の脅迫状
('83講談社)
八坂心太郎
日本中央競馬会保安職員。寡夫。
娘(八歳)一人。
堀佳都子
中央火災海上保険株式会社調査課員。
八坂の見合い相手。
とってもカルディア
('85講談社)
織田貞夫
TV下請けプロダクション社員。独身。
身長一八三センチ。
土佐美郷
同上。独身。
身長一四五センチ。
ビッグゲーム
('85講談社)
佐伯智則
新日本アトラス球団
資料課員。独身。
松橋涼子
同上、オペレーター。
独身。
七日間の身代金
('86実業之日本社)
近石千秋
ジャズ・シンガー。
独身。
槻代要之助
千秋の伴奏ピアニスト。
独身。
珊瑚色ラプソディ
('87集英社)
里見耕三
家電メーカーAV開発事業部シドニー支社員、
エンジニア。
白井彩子
耕三の婚約者。
殺人者志願
('87光文社)
菊池隆友
アルバイト生活者。
菊池鳩子
隆友の妻。
ダブルダウン
('87小学館)
福永麻沙美
松鶴書房出版部員。
独身。
中江聡介
同社『週刊ベスト』
記者。

 矢印は愛憎の方向を示します。⇔は相思相愛。ただし肉体関係(あ、生ぐさい言葉を使ってしまった)があるのは、夫婦ないし許婚同士である『珊瑚色ラプソディ』と『殺人者志願』だけのようです。
 カップル探偵役が多いのは、やはり作者がコンビであるせいでしようか。しかし、例えばエラリイ・クイーン(作者と同名の探偵のほう)は、一時期ニッキー・ポーターという女助手がいましたが、これはエラリイ・クイーン・シリーズのTV化に華を添えるため生れたキャラクターが原作に逆輸入されただけで、原則的にはコンビ探偵とは言えませんし、その他のチーム作家も同様だったと思います。例外はパトリック・クェンティンという男二人組の作家で『俳優パズル』など一連のパズル・シリーズでダルース夫妻を活躍させてきましたが、作者がコンビを解消すると同時に、それまで短篇で起用してきたトラント警部に主人公を替えました。一人になってからのクェンティンの代表作に『二人の妻を持つ男』という象徴的なタイトルの長篇がありますが、ちなみに、本書『三度目ならばABC』の第三話「三人の夫を持つ亜矢子」はこれをもじったものでしょう。
 で、そろそろ本書の話をしないといけません。この本は最初、1984年10月に講談社ノベルスの1冊として刊行されましたが、その時の著者のことばの一節を引用しておきます。
「申し訳ないような話ですが、とっても楽しんで書きました。このシリーズに出てくる二人組が、すっごく気に入っているからです。この本の中の六つの短篇、精魂こめて、楽しく楽しく練り上げました」
「すっごく気に入っている」といわれる通り、本書の山本山コンビはこのあともう1冊、長篇『とってもカルディア』に主演しますが、岡嶋氏の複数の著書に登場するキャラクターは現在のところ他にいません。山本山というのは言うまでもなく、今でも放映されているかどうか某海苔メーカー(宣伝になるといけないので特に名を秘す)のTVコマーシャル、上から読んでも下から読んでも山本山というのに由来しますが、あれは字面がそうなっているだけで、こちらの山本山コンビはそれぞれ正しく回文名になっています。
 こんなふうにネーミングからして凝らせるほど、そもそもどこが作者のお気に入りとなったのでしょうか。それは、この2人が作者に似ているからではないかと思います。TVの下請けプロダクションといえば、岡嶋両氏も似たような仕事をやっていたことがあるようですが、そんなことを言っているのではありません。山本山コンビの探偵法が、作者の創作法に似ていると思われるのです。
 岡嶋氏の他のコンビ探偵は、一方が名探偵で一方が完全にパートナー、あるいは双方が少しずつ謎を解いてどっちが中心とも言いがたい、と二様あるようですが、山本山コンビはきっぱりと役割が分れ、しかも探偵として連動しています。漫才で言えば織田貞夫がボケ、土佐美郷がツッコミに当るでしょうが、貞夫は探偵としてはボケどころか、最終的な謎ときを受けもちます。しかし貞夫の推理を促すのは、美郷の飛躍なのです。
 飛躍と詰め──これこそ、岡嶋両氏の基本的な役割分担ではないでしょうか。それならば、発想は大胆、構成は緻密という岡嶋氏の作風も、いかにもと頷けるのです。さて、徳山氏、井上氏のどちらが飛躍、どちらが詰めを担当しているのでしょうか。聞くところでは徳山氏のほうがスポーツマンでアウトドア志向、井上氏のほうがパソコン、ギター等をいじるのを好むインドア志向だそうです。最終的な執筆作業には井上氏のほうが向いているはずで、それなら詰めるのは井上氏の役割ですかね。しかし、前記の鼎談で井上氏はこうも言っています。
「……(ぼくのほうは)飽きっぽいんですね。彼(徳山氏)はわりとしがみついちゃうほうなんですけども、ぼくはフラフラしてるんです。だから、シリーズ・キャラクターなんかすぐいやになって、違うものを書きたくなるし、同じシリーズの中でも違う書き方がしたくなるんですよね」
 すると、井上氏が飛躍、徳山氏が詰めのほうなのでしょうか。また分らなくなってしまいます。え? 最初の仮説が根本的に誤ってるんじゃないかって。そうかも知れません。この上は、本書を読んでみて、あなたの推理を聞かせて下さい。