解説

茶木則雄(ミステリー専門書店「深夜プラス1」店長)

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 浜松市に〈アガサ〉という私設図書館がある。同市在住の熱烈なミステリーファン、庵原直子さんが、10年前に自費でマンションの1室を借り、手持ちの本を並べて始められたミステリー専門の図書館で、現在の会員数は約250名前後。純粋に推理小説が好きな人だけが集まる、何とも羨ましいサークルだ。
 その〈アガサ〉における十年間の貸出しベスト20が、「この10年間、どんなミステリが読まれてきたか――あるサークルにおける読書調査記録」と題して、『創元堆理2 '93年春号』東京創元社)に発表されている。
 それによると、1983年11月から1992年10月の9年間で最も多く貸出された作品――延ベ48,957冊のなかから選ばれた栄えあるベスト1は、なんと岡嶋二人『焦茶色のパステル』!(ちなみに海外部門は、アガサと言えば当然クリスティ、『青斎の死体』であった)。
 私、これを見たとき、そうかそうか、やっぱりそうでしたかおたくでも、と思わず膝を打った。
 というのも岡嶋二人は、同じくミステリーを専門とする当店においても、棚回転率では常にトップを争う超人気作家であったからだ。棚回転率というのは、1年間にその本が何回棚から動いたかを示すもので、通常ロングセラーの目安とされている。新刊のベストセラー・リストとは違った意味で、その作家の人気を計るバロメーターと言ってもいいだろう。もちろん新刊も売れに売れている。当店ベストセラー・リストの常連中の常連であることは言うまでもない。しかしながら世間一般では、その実力に見合うだけの評価が、まだまだ成されていないのではないか。そう思っていたのだ。だから〈アガサ〉の"岡嶋二人ベスト1"という結果を知って、我が意を得たり、と快哉を叫んだのである。

 私事で恐縮だが、実は、岡嶋氏の『焦茶色のパステル』には深い想い出がある。
 1981年、大学を中退した私は、書店でアルバイトをしながらミステリー作家を志していた(というとかっこよく聞えるが、今から思うとただのドロップアウトで、なれたらいいなあという程度の、甘い考えしかなかったのね、私)。ところが、その年に志水辰夫のデビュー作「飢えて狼」が出た。それを読んで、私、はやくも後悔の念にとらわれた。こらあかん、凄すぎる!
 とても太刀打ちでけん……。しかしなあ、せっかく中退までして覚悟を決めたのだ。ここで諦めたのではいくら何でも男がすたる。ハードボイルドはやめにして、もう少し別の角度から考えてみようか。友人とそんなことを話しているうちに、2人で面白いアイデアを思いついた。
 その友人、私に輪をかけたミステリー狂で、しかも競馬ファンときている。競馬だったら私の方も負けちゃあいない。当然のことながら、2人ともディック・フランシスの大ファンであった。ならば、2人で合作して日本のディック・フランシスを目指す、というのはどうだろうか。1人じゃ無理でも、2人なら何とかなるかもしれない。競馬界を舞台にした画期的な作品を書いて、乱歩賞に応募する! 何と言っても日本では合作作家というのは珍しい。受賞したら必ず話題になる! 日本のディック・フランシスにして日本のエラリー・クイーン、なあんちゃって。受けるぜ、これは。いやいや2人とも、長年日本競馬界に貯金してきた甲斐があった。これまで暗証番号が分からなくてさんざん苦労したが、これからはもう大丈夫! などと訳の分らんことをニタニタ言いながら、喫茶店で合っては、ああでもないこうでもない、と作品の構想を練っていた。
 それが忘れもしない1982年の7月、新聞の記事で岡嶋氏の第28回江戸川乱歩賞受賞を知らされたのである。合作作家の競馬ミステリーだとおお……そんな馬鹿な!! 私まさに、愕然となりました。9月に単行本になった『焦茶色のパステル』を読んで完璧に打ちのめされた。それは私たちが考えていた作品などと比べると、当然のことながら月とスッポン。才能の違いをまざまざと見せつけられる作品であった。もうあかん、今度こそだめや……。私はその時点で、友人ともども作家になる夢を完全に捨てた。その後しばらくして私は、アルバイトから正式に社員に採用され、書店員としての道を歩くことになる。
 いやしかし、考えてみればホント、岡嶋氏は人生の恩人である。もしあのとき『焦茶色のパステル』に出合わなければ、私、いったいどんな人生を送っていただろうか。それを考えると薄ら寒い。私のことだから根性も才能もないくせに、タラタラと作家志望のフリーターを続け、あげくの果ては新宿駅かどこかでレゲエのおぢさんになっていたやもしれぬ。今こうして(曲りなりにも)人生の表街道を歩けるのは、岡嶋氏のおかげ、と言っても過言ではない。その私が、今回、岡嶋氏の作品の解説を書かせていただけるというのだから、いやはや人生は不思議な縁に満ちている――。

 さあて『タイトルマッチ』である。
 本書は、1984年の『野性時代』3月号に一挙掲載され、6月にカドカワノベルズで本になり、1989年の2月に徳間書店から文庫化され、いわば今度で4度目のおつとめを果たすという、著者にとってはまことに孝行息子的(?)存在である。この孝行息子がまた、内容的にも、実に出来がいいのだ。
 ミステリーファンならご承知のとおり、岡嶋氏は業界では「人攫いの岡嶋」と呼ばれている。作品に誘拐をテーマにしたものは多いが、なかでもこの『タイトルマッチ』は、異色という意味では1番の作品ではないだろうか。
 怪我で引退した元世界ジュニア・ウエルター級チャンピオン、最上永吉の息子が誘拐され、脅迫状が彼の義弟で同じジムに所属する琴川三郎あてに届く。琴川はその2日後、最上からチャンピオン・ベルトを奪った王者ジャクソンに、"因縁の対決"を挑むことになっている。脅迫の目当てはタイトルマッチの勝敗にあった。と、そこまではいい。ところがだ。普通ならば「試合に負けろ」と言うはずなのに、犯人は「勝て」と言うのである。しかも「ノックアウトで倒せ」と言う。「さもなくば、子供の命はない」と言うのだ。どう考えてもこんな理不尽な脅迫はない。負けようと思ってリングに上がるボクサーなど1人もいないだろう。言われなくても必死にやるに決まっている。それを「ノックアウトで勝て」とはねえ。犯人の目的はどこにあるのか。この謎で冒頭から読者をグイグイ引っぱっていくのだ。物語は途中で何度も意外な展開を見せ、紆余曲折を経てクライマックスのタイトルマッチ・シーンへと一気になだれ込んでいく。これがまあ圧巻! 合作者のひとりである徳山諄一氏の「プロボクサーをめざしたことがある」というボクシング経験を如何なく発揮した、血と汗の匂いが行間から漂ってきそうな壮絶な拳闘シーンなのだ。
 こうした卓抜したアイデアと練りに練られたプロット、そしてディテイルの確かさが、氏の特徴である"お話の無類の面白さ"を作り上げていることは間違いないが、今回読み返して改めて思ったのは、人物造形の巧みさである。生真面目で一本気、そのくせどこか抜けていてユーモラスな本書の主人公、最上永吉の描き方など、もう見事という他はない。実に憎めないというか男惚れするというか、私は好きだなあ、こういう男。読者のなかにはたぶん、プロボクサーから俳優に華麗なる変身を遂げた、赤井英和を想像しながらお読みになった方もいるかと思う。ピッタリだもん。
 とにもかくにも、本書が読み始めたら止まらない面白本であると、私、自信を持って断言できる。読んで絶対損のない作品であることは、私が保証する。まっ、岡嶋ファンには言わずもがなのことではあるが。
 しかしねえ、ひょっとして初めて岡嶋作品と接触するという読者もいるかもしれない。そう、いまそこで立ち読みしているあなたのように。あなた、あなたは今日、銀河系でも38人とはいない幸運なお人だ。これから何冊も岡嶋作品を読めるなんて、この幸せ者! 騙されたと思ってすぐ本書をレジに持っていきなさい。何? 茶木なんて聞いたこともない男の言うことなんて信用できない? そうか、じやあこうしよう――もし、本書を買って読んで、あなたがつまらないと言うのであれば、この私がお金をお返しする。つまり、返金保証付きというわけだ。そういう人が億万が一いたら、神楽坂下の当〈ブックス深夜プラス1〉までお越し願いたい。私が責任を持って返金に応します。
 さあ、レジに走れ! そして本書を読んで至福の時を過ごすのだ、友よ!

1993年11月