解説

佐野 洋

HOME | 岡嶋二人 | あした天気にしておくれ | あした天気にしておくれ_解説_佐野洋

『あした天気にしておくれ』は、岡嶋二人氏の事実上の処女作である。
 と書くと、奇異に感じる読者もいるかもしれない。岡嶋氏(と言っても、徳山諄一、井上泉の両氏が共作をするに際して、岡嶋二人というペンネームを用いているのであるが)は、1982年に『焦茶色のパステル』で江戸川乱歩賞を受賞しており、この『あした天気にしておくれ』が最初に本になったのは、'83年の10月なのだから、『焦茶色のパステル』の方を、同氏の処女作と考える読者も、少なくないはずだ。
 しかし、実は『あした天気……』の方は、『焦茶色……』が乱歩賞を受賞する前年に、やはり乱歩賞に応募し、最終候補作に残っているのである。つまり、『あした天気……』の方が、『焦茶色……』より、1年早く書かれていることになる。
 ここで、個人的な意見を述べさせてもらうと、私としては、同じ乱歩賞を受賞するなら、『あした天気……』の方で受賞してもらいたかったという思いが強い。
 いや、『あした天気……』の方が『焦茶色……』より優れているとか、『焦茶色……』は、乱歩賞にふさわしくないなどと、考えているのではない。
『焦茶色……』が、極めて優れた作品だということは、実際にそれを読めば(すでに講談社文庫にはいっている)、すべての読者が納得するに違いない。
 にもかかわらず、『あした天気……』が受賞作であって欲しかった、と私が考えている理由は──。
 江戸川乱歩賞が、書下し長編を募集し、その優秀作品に与えられるようになって仁木悦子氏の『猫は知っていた』(1957年度)以来、昨年度の『モーツァルトは子守唄を歌わない』(森雅裕氏)『放課後』(東野圭吾氏)まで、30作が受賞している。
 そして、これら受賞作は、いわゆる本格派はもちろんのこと、社会派ミステリ、心理サスペンス、エスピオナージュ、歴史ミステリ、青春学園ミステリー等々、形式が多様であるばかりでなく、その舞台や時代背景も千差万別で、まさに百花繚乱の趣きがある。
 にもかかわらず、すべてに共通していることがある。それは、作中に殺人事件があるということだ。
 推理小説だから、殺人事件があるのは当然だ、と考える方がおられるかもしれない。だが、そう考える人たちのために、つまり『推理小説には殺人がつきものだ』という迷信を打破るために、この『あした天気……』が、乱歩賞作品であって欲しかった、と私は思うのである。
 すでに、この作品をお読みになった方にはおわかりのように、『あした天気……』には殺人事件はない。それどころか、ひとりとして死者は出て来ない。最後の方で、交通事故があるが、事故に遭った人物も、生命は取りとめることになる。
 従って、もしこの『あした天気……』が、乱歩賞を受賞していたら、「江戸川乱歩賞設定以来、初の無殺人推理小説」の栄誉あるタイトルが、この小説に冠せられたのだ。そのことを、岡嶋氏とともに、私は残念に思っている。
 では、「殺人がない」というのは、そんなに意味があることなのか。
 あるパーティで、岡嶋氏(つまり、徳山、井上両氏)と話したことがある。
 共作の場合、プロットが決っても、あとでどちらかが異論を出すことはないか、と私が聞いたところ、
「それは、もう始終です」
 と、徳山氏が言った。「その中で最も多いのは、あの程度のことで果して人を殺すものだろうか、という疑問です」
「ぼくらの場合、喫茶店で打合わせをするのですが……」横から井上氏が敷衍した。「別れてから、いろいろ考えると、あんな動機で人を殺すというのが、納得できない気がして来るんですね。それで、夜おそく相棒に電話をすると、相棒の方も、いや、実はおれも同じことを考えていたんだ……、というぐあいで……」
 それはわかる、と私も思った。私自身、小説を構想する段階で、常に疑問を持つのは、こんな動機で殺人が起きるものか、言い換えると、この殺人を読者が納得してくれるかどうか──ということである。
 ことに長編の場合、このあたりで、もう1つ殺人があった方が、読者の興味を引っぱれるのではないか、と一方で考えるのだが、作中の犯人の性格から見て、さらにもう1つの殺人に踏切れるとは思えない、というようなとき、何時間いや何日間も筆をストップさせて考え込んでしまう……。
 結局は、締切りに追われ、もうしょうがない、とにかく殺してしまおう、と決断することもないわけではない。
 私は、1人で書いているため、このような妥協もできるのだが、共作の場合は、こうはいかないだろう。
「こんなことで、人を殺すかね?」
「いや、普通は殺さないだろうな。まず、別の打開策を考える」
「そうだろう? やっぱり殺人はやめるか」
 何度となく、こんな議論がくり返され、結局、よし、いっそのこと、殺人なしの推理長編を書いてみようということになった──と推理してみたのだが、これは、うがち過ぎな迷推理の気がする。
 いずれにせよ、殺人がなくても推理小説は立派に成り立つし、サスペンスを盛り上げることもできる。この『あした天気……』は、それを証明してみせてくれた。
 少なくとも、読者はこの作品を読みながら、一瞬たりとも退屈を覚えなかったと思うし、むしろ、ページを繰るのがもどかしく感じたのではあるまいか。
 そして、この成功は、ひとえに岡嶋氏の構成力と技巧にかかっている、と私は思う。
 ほかの場所にも書いたが、『あした天気……』は、最初は倒叙物の体裁を取っている。
 主人公の「私」が、1つの状況に押され、犯罪計画を練り、その実行に踏切る(その犯罪計画を、読者には明らかにしない作者の手口が心憎い)。
 ところが、その計画に、途中から奇妙な要素が絡んで来る。1つは、「私」の予想とは違った形で、関係者が動き始めることであり、もう1つは、「私」の計画にはない、従ってそんなことはあり得ない工作が明らかになるということだ。
 そうなると、その「工作」は誰の手によって行なわれたのかが、当然問題になって来る。つまり、この段階では、「フー・ダニット」=犯人当ての色彩をも、この小説は持って来る。
 さらに、その謎の工作者は、身代金をどうやって手に入れるかという「ハウ・ダニット」の謎も、小説の後半部に盛り込まれる。
 言ってみれば、推理小説の面白さを作り出す、いくつもの要素が、この小説には投げ込まれているのだ。
「かなりの覚悟で、思い切って言うなら、私の目標は、2度目を読んでもやはり面白いものを書くということです」これは、『あした天気……』が初めて本になったとき、岡嶋氏が「あとがき」に書いた言葉だが、この小説は、少なくとも2度は読むことをお勧めしたい。
 1度目は、筋の面白さに惹かれ、じっくりと考えながら読むことは、恐らくむずかしいだろうけれど、2度目には、結末を知った上で、作者の張った伏線の巧みさに驚き、また、登場人物たちが、それぞれ生き生きと、しかもごく自然に行動し、それが人間くさいドラマを形成しているのを楽しんで読み進むことができる。
 私は、このたび、文庫版の解説を書くに当り、3度日の読み返しをしたのだが、それでもいくつかの発見をした。
 それは……。いや、このことは読者におまかせした方がいいだろう。欺されたと思って、もう1度読んでごらんなさい。