確実なことはいえないのだが、私と井上さんが初めて会ったのは、「岡嶋二人」が解消された直後であったような気がする。「雨の会」という若手ミステリ作家の会を、井沢元彦さんがいいだしっぺで作ることになり、メンバーのひとりとして井上さんも加わったのだ。
もちろん「岡嶋二人」のことを、私は知っていた。江戸川乱歩賞、日本推理作家協会賞、吉川英治文学新人賞をたてつづけに受賞した「えらく歩留りのいい」作家であるというイメージがあったからだ。
そのときはコンビ解消の裏にどのようないきさつがあるか、私はまるで知らなかった。こうして本書を読み終えた今、ひどく無神経な質問をしてしまったものだとは思うが、私も訊ねたことがある。
「どうして『岡嶋二人』をやめちゃったんですか」
たぶん嫌になるほど、井上さんは同じ質問をされてきたにちがいない。ひょっとしたらそのくり返しが、本書の執筆動機のひとつにもなっているかもしれない。
「いや……、何というか、疲れちゃったんですよ」
井上さんはそう答えたように記憶している。そして私はその答に、「はあ……。やっぱり難しいですものね、合作は」
としかいえなかった。
しかしどのような合作スタイルをとっていたかについては、訊ねなくとも想像はできた。「アイデア係」と「執筆係」だ。コンビ作家というのは決して多くはないが、おそらくはそのすべてが、作業を「考えること」と「書くこと」に分けている筈だ。本書のあちこちに計画として登場する、前半と後半を分担して書くなどという作業は不可能に近い。それは自分も小説を書く立場として理解できる。
二人以上の人間がそれぞれに物語を書けば、結果、ひとつの雰囲気を継続することはありえない。リレー小説のスタイルは、お遊びとしては有効だが、一個の作品として評価を得る対象とはなりえないのだ。「岡嶋二人」がお遊びの作家でないことは、今なお高い評価を受けている作品を読めばわかる。始まりこそお遊びであったかもしれないが、デビュー以降の「岡嶋二人」は、プロとしての水準にこだわってきた。それが、先に書いた「歩留りのよさ」につながっているのだ。
だからコンビ解消後、長いあいだ井上夢人第一作を世に問わなかった井上さんに、私はいらぬ心配をしたものだった。「雨の会」での出会いの後、私は家族連れで八ヶ岳の井上邸にお邪魔したり、電話で長々と世間話をするようになっていた。ちょうどその頃、「永久初版作家」を脱したばかりの私は、ひどく忙しい思いをするようにもなっており、まるで仙人のような暮らしをする井上さんをうらやむ半面、じれったく思ったからだ。
「井上さん、そりゃプロのペースじゃないよ。アマチュアだって」
何度か、そういうセリフを井上さんに向かって、当時口にしたように思う。もちろんそのときもまだ本書は書かれていなかった。もし書かれていたら、井上さんがかつて締切とどれだけ苦しい闘いをしていたかを知り、私もそんないい方をしなかったろう。
しかし井上さんは私にそう突々かれても、
「そうだなあ。そうかもしれないなぁ、まあいいじゃない」
としか答えなかった。もし逆の立場だったら、さしずめ私は、
「何いってんだよ、俺が前にどれだけしんどい思いしたか知らないだろう」
といい返したにちがいない。だからもしかすると、私の突々きもまた、本書を書かせる動機のひとつとなっているかもしれない。
やがて井上夢人第一作が世にでて、さらに第二作、第三作がでるに及び、井上さんは再び下界へと戻ってきた。職業作家へと復帰したわけだ。暮らしぶりはあいかわらず仙人のようだが。
本書の「衰の部」を、私は先に読んでいる。初出誌が定期的に送られてきたからだ。非常に興味深く読んだ。そしてその印象を、次に井上さんに会ったとき、こういった。
「あれ、読んだよ。まるで恋愛小説みたいだった」
井上さんは少し呆れた顔をした。そんな読み方をされるとは思わなかったようだ。
「だってさ、今度こそ別れよう、今度こそ別れようと思いながらも、女が男への情に流されているって感じなんだもの」
「じゃあ女って俺?」
「そう。徳山さんが男」
もちろん二人が実際に恋愛関係にあったなどとは思っていない。しかし改めて本書を読み返してみると、やはり終盤の井上さんの苦悩は、破局を迎えつつあるカップルの片方の思いに近い。
正直な話、小説を書くという作業は、実に独りぼっちでつらいものだ。だからコンビという形が実現できるならと、小説家の誰しもが憧れを抱いている。
しかし一方で、それが永久にかなわぬ夢であることも承知している。必ず、うまくいかなくなるときがくる、と。「岡嶋二人」の場合、原因はふたつあった、と私は思う。ひとつは本書にもある、現実的な作業速度の問題。アイデアを提供する側が遅れれば、書く側は締切を守るために勢い、ひとりですべてを作らなければならなくなる。不公平感が生まれてくるのは当然だろう。
もうひとつは本書を読み進むうちに気づいたのだが、作家としての熟練の度合いのズレである。二人でやるべき作業をひとりでこなすうちに、井上さんの作家としての力量は急速に増大していったのだ。徳山さんが作家としての力量に欠けているといっているわけではない。だがしかし、初めはまったくの素人としてコンビを結成し、プロとなり、作業をつづけていく過程で、アイデアのみを提供するという、いわば同じ位置での作業をくり返す徳山さんと、次々に自らの手で作品を完成させていった井上さんとのあいだに、技量の差が生じてくるのは当然の結果だ。
そのため、徳山さんのだすアイデアを井上さんが物足りなく思ったり、徳山さんからすれば作品化が困難だと思われるアイデアでも、実際に筆を執る井上さんからすれば充分モノになると考える事態がおこった。
このふたつの原因が、井上さんからの一方的なコンビ解消を生んだのだろうと、私は思う。
ひとりの作家の(合作とはいえ、「岡嶋二人」がひとりの作家であったことはまちがいない)消滅の原因について、同業者とはいえ第三者があれこれいいたてるのは、何だかなぁ、という気もする。しかしこれまで井上さんにあれこれ無責任な発言をしてきた身としては、この、私の印象は述べておかなければならないだろう。
私は徳山さんとはほとんど面識がない。したがってコンビの抱えた問題には、感情的な側面もあったろうとは思うが、井上さんもそれについて触れていない以上、邪推するのはやめておく。
ここで順番は逆になるが、「盛の部」についても述べておきたい。
これから小説、特にミステリを書こうとしている人は、本書をぜひとも読むべきである。もちろん小説家の発想方法や、物語の組立て方は千差万別ではあるが、これほど基本的な部分から説明し、さらに練習の手段までを知ることのできる本は滅多に存在しない。
まったくの素人、それも文学青年ですらない人間が、推理小説を書こうと思いたったら具体的にどのような困難にぶちあたるか、そしてそれを「岡嶋二人」がどのようにクリアしていったのかが書かれている。それは、またとない教科書となる筈だ。
ただし、このことも書き添えておかなければならない。
確かに「岡嶋二人」はずぶの素人から出発した。しかし小説家とは、すべての人がずぶの素人から出発する職業である。いいかえれば、誰でもなれるのだ。
一方で、誰でもなれるからこそ、評価を受ける作品を書いたり、ジャンルのスタンダードとなりうる作品を残すのは、非常に難しい。
いってみれば「岡嶋二人」となる前の井上さんと徳山さんはずぶの素人だったかもしれないが、「岡嶋二人」は傑出したプロ作家だったということになる。したがって、本書を読むことで小説家の創作法は学べても、「岡嶋二人」にはなりえない。
「岡嶋二人」は、それほどに優れた作家だった。作品は、商品となったときから、作者ではなく読者のものとなる。「岡嶋二人」が消えた今も、読み継がれている。
そして、「岡嶋二人」を形成していた、井上・徳山のお二人は、その名前を損なってはならない責任も負っている。
それは決して酷な責任ではない。なぜなら井上夢人さんは、きっちりとその責任を果たしつづけているのだから。
だから、いらぬお節介を承知で書くなら、私は徳山諄一さんにもまた、今度こそ筆を執っていただきたいと願っている。