解説

榎本正樹

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(解説中、本編のストーリーに触れている部分があります。本編読後にお読みになることをおすすめします。)

 1982年のデビュー以降、井上泉と徳山諄一による創作ユニット「岡嶋二人」は数々の作品をリリースしてきたが、現実と非現実の境界が溶解していく悪夢を描いたSFミステリ『クラインの壺』(新潮社、89年)を最後にコンビは解消され、その後、井上は井上夢人の名で創作活動を再開することになる。
 その記念すべき再デビュー作が、主人公の内部に「何者」かが侵入してくる恐怖を描いた『ダレカガナカニイル…』(新潮社、92年)である。井上はその後も、54の文書ファイルが未曾有のアイデンティティ・クライシスを呼び寄せる『プラスティック』(双葉社、94年)、コンピュータ社会の陥穿と生命進化のヴィジョンを鮮やかに提出した『パワー・オフ』(集英社、96年)、1組の男女の会話だけによって成立する短編集『もつれっぱなし』(文藝春秋、96年)、とてつもない嗅覚を得た主人公が連続殺人犯に迫る『オルファクトグラム』(毎日新聞社、00年)、1970年のクリスマスに自動車事故を起こした4人の男女に10年ごとにもたらされる事件を描いた『クリスマスの4人』(光文社、01年)など、多くの作品をリリースしてきた。この中には、現代小説の到達点として高く評価されるべき日本初の本格的ハイパーテキスト小説『99人の最終電車』(http://www.shinchosha.co.jp/99/)も含まれる。
 右に記した作品の概要を見てもわかるように、井上の作風をひと言で説明することはむずかしい。ストレートなミステリ作品にとどまらず、ホラーやサスペンス、最先端のテクノロジーに取材した作品もあれば、実験的作品もある。正統的なミステリに属しつつも、そこに縛られない井上作品は、ジャンル的可能性に満ちた自由度を備えている。
『the TEAM』は、8つの短編を収めた連作集である。短編連作は、1つひとつの読み切り短編によるエピソードの積み重ねと、短編同士の有機的な連関を意図した著述形式であるが、この作品ではその形式が有効に機能している。バラエティ番組の1コーナー「霊導師 能城あや子」に出演中の人気霊導師あや子と、彼女をサポートする3人、敏腕マネージャーの鳴滝昇治、どんな場所にも侵入してしまう盗みだしのプロ草壁賢一、コンピュータを自在に操るハッキングの天才藍沢悠美ら、4人のチームが解決する事件を各短編で描きつつ、同時に4人のバックグラウンドをもう1つの謎として置き、短編を読み進める読者にそれらをメタストーリーとして提示する。短編連作形式によって、そのような重層的な仕掛けが可能になる。
 本書がここ数年来の、メディアに主導されたスピリチュアル・ブームに強く動機づけられた作品であることは間違いないだろう。あるテレビ局が放送したスピリチュアル番組をめぐって、科学的根拠のない情報提示が放送倫理に触れるとの申し立てが行われたことは記憶に新しい。メディアに露出し、タレント化する霊能力者。そして、彼らをバラエティ番組に登場させ、視聴率を稼ごうとするテレビ局。両者の関係を批判することは容易(たやす)い。しかし本作は、霊能力者やメディアを直数的に批判し、糾弾する作品として構想されてはいない。本来であれば俎上に載せられるべき霊能力者サイドの人間を主人公に設定し、案件解決のプロセスを当事者視点で描きだすという、逆説的な手法がとられている。そのようなユニークなアプローチが、斬新なクライムノベルを誕生させることになった。
 能城あや子率いるチームは協同して、「マル対」と呼ばれる調査対象となる人物の身辺を徹底的に洗い、探り、手に入れた情報を元に推理を重ねて、隠されていた真実を暴きだす。霊視とは「目に見えないものを見る能力」だが、彼らは旧来的な意味でのオカルティズムや神秘主義に与(くみ)しない。彼らを規定するのは、霊能力とは対局にある徹底した近代合理主義であり、科学万能主義である。彼らは目に見えるもの、科学的に実証できるものしか信じない。「招霊(おがたま)」のラスト、死者の霊が仕返しをしたのではないかと訝(いぶか)しがる悠美に対して、あや子は「バカ言うんじゃないよ。霊なんて、いるわけないだろ。バカバカしい」と一蹴する。霊能力者であるはずのあや子自身が、霊能力を否定し、しかしいっぽうで霊能力者であると思われている立場を利用し、メディアを活用して人助けを行う。そのようなあや子の微妙な立ち位置の設定自体に、メディアと連動した同時代のスピリチュアル・ブームヘの「批評」は集約しているとみるべきだろう。
 物語の冒頭を飾る短編「招霊」で明らかにされるのは、相読者への徹底した事前調査と情報分析に基づいて霊視番組が構成されているという驚くべき事実だ。賢一の卓抜した潜行能力、悠美の情報解析技術、さらに昇治の推理力が加わって、心霊関連の告発サイトを運営する桂山博史のたくらみのみならず、博史の妹亜紀の10年前の自殺をめぐる謎をも解き明かしてしまう。彼らはテレビの力を最大限に活用し、あたかも事件解決があや子の霊能力によるものであるかのように演出する。かくしてあや子は、霊導師の衣をまとった探偵として、世の注目を集めることになる。
 チームの情報探索の要となるのが、目的地への物理的な侵入であり、テクノロジーを駆使した諜報行為である。ワゴンRで現場に乗り付け、作業着に作業帽をかぶり、手術用手袋(サージカルグローブ)をはめ、解錠具(ピックツール)を使ってターゲットの部屋に侵入する賢一は、デジカメによって現状の記録を行い、USBメモリーにデータをコピーし回収する。優秀なプログラマーであり、ハッキングのエキスパートでもある悠美は、ネットを経由してターゲットの懐深くに潜り込み、自作のプログラムを仕組んで、データを盗みとる。テレビ局内に密かに設置された隠しカメラとマイクを通して収録現場の様子をモニターする賢一と悠美からの情報を、サングラスに据え付けられた受信機を通して、あや子はリアルタイムで受けとる。この作品の中で描かれる電子機器を活用した情報収集やハッキング技術は、どれも実現可能なものであり、そのことが本作にスリリングなリアリティをもたらしている。テクノロジーと探偵術が結びつくことでどのような情報探査が可能になるのか(もちろん彼らの行動は犯罪行為だが)、その実例が示されており、興味深い。情報探索やハッキングのシーンは、テクノロジーやハードウェア事情に詳しい作者ならではのもので、本書の読みどころの1つといえるだろう。
 事前調査のための探りだしを行うチームは、その卓抜した能力によって「何か」を暴いてしまう。しかし暴く者もまた、暴かれる運命にある。能城あや子の裏の顔を暴きだそうと彼女の前に現れるのが、ゴシップ週刊誌の記者、稲野辺俊朗である。「隠蓑(かくれみの)」であや子と全面対決をする稲野辺であるが、彼の完敗に終わる。本書の最終2作において、あや子の過去が暴露され、稲野辺の闘いは最終局面を迎えることになるが、4人は人々の前から突然姿を消す。能城あや子を目の敵のようにして追いかける稲野辺に対して、妻の寿絵が「だから、それで、どこに被害者がいるの?」と問いかけるシーンが印象的だ。あや子たちが行っていることは犯罪行為であるが、多くの人を助けてきた。彼女の罪は断罪されねばならないが、犯罪すれすれの、時には法を犯す行為によってしか解決できない事件は確実に存在する。追及されなければならない巨悪は他にいくらでも存在するのではないかという寿絵の考えは、ある意味において正しい。電子霊導師あや子率いるチームは、現代の義賊なのだ。
 本作はクライムノベルの体裁を備えているが、その中心には「家族」をめぐる物語がメタストーリーとして埋めこまれている。家族小説としてこの作品を読み直すとき、どのような風景が開けてくるだろうか。「招霊」において、妹を自殺に追いこんだと思いこみ苦しみ続けてきた博史は、あや子の助けによって過去と決別する。「目隠鬼(めかくしおに)」もまた、不孝な事件に巻きこまれた母親の、過去との和解の物語だ。「隠蓑」では、稲野辺と小学生の息子優太の間のわだかまりが解消され、「寄生木(やどりぎ)」では、子供を思う母の愛が描かれる。さらに最終2作「潮合(しおあい)」「陽炎(かげろう)」で明らかになるのが、かつて《横川一座》という芸人一座を率いたあや子に、失明と難聴をもたらした事件の顛末である。そこには、母と息子の秘められた物語があった。鳴滝昇治が長年、抱え続けてきた悔恨の思いも、母との関係をめぐるものだ。
 能城あや子、鳴滝昇治、草壁賢一、藍沢悠美の4人のチームもまた、同じ目的に向かって邁進する集団であり、チームという結束で結ばれたドメスティックな共同体である。『the TEAM』は何より、家族という関係をめぐる物語なのである。井上は本作において、機構としての現代家族の可能性と不可能性を、さまざまに模索しているように思える。そこには家族小説というジャンル的枠組みで括れないような「関係」への透徹したまなざしがある。
 世間から突如として姿を消したあや子、昇治、賢一、悠美は、いまどうしているのか。最新のテクノロジーを駆使した彼らチームの活躍を再び見てみたい。そんな思いに駆られる。井上は同一の登場人物や設定を踏襲する、いわゆるシリーズ小説を忌避するタイプの小説家であるが、この場を借りて一読者の切なる希望をお伝えしておきたい。