犬の嗅覚を遥かに凌ぐ能力を持った「嗅覚探偵」、しかも匂いが視覚化できる特殊能力者。
『オルファクトグラム』の主人公の設定を聞いただけで、これは映像化すべき作品だと直感した。一読して直感は確信に変わった。というより、読みながら映像を思い浮かべてワクワクしてきた。
幸運なことに、その後WOWOWの開局10周年作品としてハイビジョンドラマ化が実現し、その監督を僕が務めることになったのだけれど、何より井上夢人作品を映像化できるというのが嬉しかった。井上夢人作品の映像化は、これまでも何度かトライして実現できなかったからだ。
僕の井上夢人作品との初遭遇は、『おかしな二人 岡嶋二人盛衰記』だった。題名に惹かれて書店で見つけた一冊。モノ作りの楽しさと苦しさが生々しく描かれていて、同じく創作を生業としている身としても感情移入できるところが多々あって、一気に読んでしまった。
ミステリーはほとんど読まない僕は、不勉強にも岡嶋二人という作家の存在を知らなかったし、それが二人の作者の合作ペンネームであり、解散後に片方が井上夢人としてソロ活動を始めたのだという事情も、この自伝的長篇エッセイで初めて知った。
『おかしな二人』に紹介されていたアウトラインを読んで興味を持ち、次に読んだのが『クラインの壺』だ。
岡嶋二人最後の作品、しかし内実としては井上氏が一人で書き上げた作品であるというこの作品は、バーチャル・リアリティを扱ったSFミステリー。どれが現実でどれが仮想現実なのかが足元から崩壊していく感覚がスリリングだった。
水溶液に浮かんで外界からの感覚を遮断するというタンキングを扱ったSF映画として思い出すのは、ケン・ラッセル監督の『アルタード・ステーツ』。この映画をSF映画ベスト5に入れている僕としては、タンキング・システムを進化させた『クラインの壺』という驚異のゲーム機には、映像化してみたい欲望を大いに駆り立てられた。
知り合いのプロデューサーから、原作者のところには映画化権の打診は既に複数から来ているらしいとの情報を聞いてもう遅いのかと思っているうちに、程なくNHKでテレビドラマ化されてしまった。
次に映画化を企てたのが、『ダレカガナカニイル…』だった。
あるプロダクションのプロデューサーから映画化の企画を持ちかけられ、あわてて小説を買って読む。一読して衝撃のラストに打ちのめされた。
何者かの意識が主人公の頭の中に現れる、というアイディアは今までもあったけれど、切ないラブストーリーとして昇華していることに感銘。普通の恋愛ものではありえないレベルの激情を体感させる、究極にエモーショナルな映画ができると興奮し、映画用のプロットを作成した。
しかしこの企画は実現しなかった。出資元が見つからなかったのだ。
この小説に出てくる「解放の家」という新興宗教団体は、いくつかの点でオウム真理教を連想させる。チベット密教をベースにしていること、特殊なコロニーを築いて共同生活をしていること、地元住民とトラブルを起こしていること。精神修行のために始まった団体が、次第に組織の拡大だけを目的に腐敗化して世間と乖離していく過程は、オウムの歴史にそのまま重なる。
しかしこの小説が書かれたのは、オウムが2つのサリン事件を起こして教団の実態が明らかにされる前のことだ。ある意味、井上氏は作家の想像力でオウムの狂気を予言していたとも言えるかもしれない。井上氏自身はオウムを特に意識していなかったらしいけれど、映画化を企画したプロデューサーがそのような話題性を意識していたのは確かだ。結局、出資元は危険な企画だと判断したのだろう。
そのような時事性を別にしても、この物語は極めて強力なエモーションを持っている。どこか出資を名乗りでるところはないのだろうか? 未だに心残りな企画だ。
前置きが長くなってしまったけれど、このような経緯の後、『オルファクトグラム』との出会いがあった訳だ。映画化の夢想を始め、企画書でも作って持ち込みでも始めなくてはと思っていた矢先、カズモという製作会社から連絡があった。『オルファクトグラム』の監督をやらないかと言われ、自分の耳を疑った。
奇跡のような幸運だと思ったけれど、この小説が映像化されるのは当然だろう。「匂いの映像化」というオリジナルでユニークなアイディアは、まだ誰も見たことのない映像になる筈だ。
井上氏の描写に極力忠実に、色とりどりの粒子が乱舞する主人公の視界をCGで映像化していった。嗅覚能力の進化に伴って、匂いの視覚化表現も4段階で変化していく。最初の段階では、匂いは比較的大きく不定形でグニャグニャしたクラゲのような状態で空中を漂う。第二段階以降は、より細かい粒子として見え始め、形状で匂いの種類を判別できるようになってくる。
絵作りの上で気をつけたのは、リアリティを確保するには、匂いの粒子そのもの以上に、それを動かす風の表現が重要だということ。粒子を見せることは、その場の空気の流れを見せることと同じなのだ。カットごとに風向きや風速を設定して「美しい風」を実感させられる映像が仕上がったと自負しているが、井上氏のイメージに合うものになっていたのだろうか?
映像化して改めて、この作品は多岐のジャンルにクロスオーバーした内容であると実感した。SFであり、サスペンスであり、青春ものであり、サイコホラーでもある。ドラマを作る上で僕が一番大事にすべきだと感じたのは、ラブストーリーの要素だ。小説を読んで、ミノルのマミへの想いがストーリーを引っ張っていく力になっていると感じていたからだ。
『おかしな二人』で井上氏は、自分の小説で一番大切にしているのは〈お話〉であり、登場人物は〈お話〉を運ぶ役割を持った〈駒〉であると語っている。井上氏の言う〈お話〉とは、いわゆるストーリーのことではなく、ストーリーを含む小説全体が目指す方向性のようなものだという。だからこそ、登場人物に存在感を与え、〈駒〉だと感じられないような工夫をしてやらなくてはならない、と説く。
『オルファクトグラム』でいえば、〈お話〉とは、嗅覚が視覚化して見えるという誰も体験したことのない世界の実感だろうか? その〈お話〉を支えるためにラブストーリーがあるというレベルを越えて、むしろラブストーリーを構成する要素として「嗅覚の視覚化」というアイディアが生かされているように感じられるのが見事だ。
ミノルが見ている世界を、マミは理解できない。ミノルの能力を巡って二人の価値観は分かれていく。嗅覚が研ぎ澄まされていくほど、ミノルの視覚は衰えていく。それが障害というマイナス要素ではなく、新しい感覚を手に入れるというプラスの要素なのだとマミも理解する場面には胸が熱くなった。二人の感情が描きこまれているからこそ、どこまでも進化していくかもしれない新しい知覚が、リアリティを持って実感できたのだと思う。
さて、井上氏は次はどんな〈お話〉を見せてくれるのだろうか? 一人のファンとして楽しみであると共に、映画のネタとしても注目しています。