解説――ナメクジが宇宙人といわれてもなぁ。

村上貴史

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 井上夢人。かつては相棒とのコンビで岡嶋二人として江戸川乱歩賞や日本推理作家協会賞、吉川英治文学新人賞を獲得するなどの実績を残し、1989年のコンビ解散後は一人の作家として活躍を続けてきている人物である。読者への卓越した情報提供技術が生み出す読みやすい文章と、その文章で綴られる緊密なサスペンス、しかも、超常現象といった日常とはかけ離れた題材を扱ったときでさえ読者にそのサスペンスを身近に感じさせる筆力と構成力、さらには主人公たちの心の揺れが醸(かも)し出す瑞々(みずみず)しさなど、井上夢人の作品は多くの魅力を備えている。
 
■会話
 
 本書『もつれっぱなし』は、そんな井上夢人が1996年に発表したソロとしての第5作(註1)である。1992年から1996年にかけて《オール讀物》誌に掲載された6つの短篇をまとめ、1996年に文藝春秋から刊行されたものの文庫版である。
 この作品、パラパラめくっていただければおわかりいただけるように、最初の一行から最後の一行に至るまで、すべてが二人の人物の会話だけで綴られている。地の文が全くないのだ。むろん、そのスタイルは井上夢人のオリジナルというわけではないが(註2)、会話だけで小説を成立させるための技法は、付け焼き刃などではなく、すっかり消化されて駆使されている。例えば、登場人物たちの性別や、彼等がいる場所、年代、力関係などといった情報が、説明くさくなることなしに、見事に読者に伝えられているのだ。
 それはもう冒頭の「宇宙人の証明」からしてそうである。ときめいている恋の初期段階から一歩先に進んで結婚を考えようかどうしようかという段階にある男女の関係や、女性が仕事を休んでいること、暑い盛りという作中における季節などの情報が、最初のわずか数ページで展開されるユーモアに満ちた会話のなかで、実にするりと読者の心に届けられてくるのだ。そもそも小説において会話がうまいと評価される場合、会話文そのものも確かに評価の対象となるが、地の文との役割分担というものも実は重要なのである。読者に伝えるべき情報を適切に会話と地の文に分散させることは、作家の重要なテクニックの一つなのだ。だが、この作品で井上夢人は、自ら進んでそのテクニックを封印した。にもかかわらず、会話も情報提供もいずれも自然で適切なのである。驚くべき技量といえよう。6篇繰り返しても技量の底が見えない点も驚愕に値する。
 だが、(驚くべきと書きつつさっさと前言撤回してしまうのだが)この段階で驚くのはまだ早い。そうした男女の次に登場してくるのが、なんと宇宙人なのである。「宇宙人の証明」では、彼女が彼氏に対して宇宙人の存在を認めるか、という難題を突きつけるのだ。しかも、その難題が、〝宇宙人を認めること〟であると同時に、〝宇宙人を信じているあたしを認める?〟という問いと一体となっているあたりが、井上夢人の小説作りのうまさといえよう。ついでに言えば、その宇宙人はナメクジそっくりの外見をしているのである。この苦境を男がどう脱出しようとするのか。いやでも興味が湧こうというものだ。
 続く「四十四年後の証明」では、四十四年後の世界から話しかけているという電話を受けた男が描かれており、第三話「呪いの証明」では、女から、彼女の信じられない行為を告白された男が描かれている。いずれも、会話のなかでの巧みな状況説明と、女性側からの(にわかには信じられないが本人はそれをごく自然な真実として認識している)非日常的な状況の説明があり、それに読者と地続きの男性が対応しようと四苦八苦する小説である。だが、共通しているのはそうした枠組みだけ。展開はそれぞれ独自であり、小説の着地点を読ませないのはさすがである。ちなみに、第四話「狼男の証明」では男女の関係が逆転し、難題に直面したときの女性のタフネスさを語ってくれていて愉しい。
 さらに、第五話「幽霊の証明」、第六話「嘘の証明」になると、そうした枠組みがどんどん歪んでいくのだが、その歪み方についてはここでは触れないでおこう。是非とも本篇を味わってみて欲しい。最終話「嘘の証明」の結末については、いやはや参ったとしか言いようのない衝撃を受けたことだけは、ここに記しておくが(註3)
 こうした具合に、卓越した技量を用いて枠そのものにも変化を加えつつ語られる本書の六篇であるが、これらは同時に、男女の間で「証明」が持つ意味合いを様々に検証しつつ、ちょいとした恋心の揺れまで織り込んでヴァラエティー豊かに展開される味わい豊かな小説でもある。全篇会話という形式の珍しさによってついつい忘れがちであるが、この点についてもここで指摘しておこう。
 
■器
 
 さて。
 この『もつれっぱなし』は、全篇会話という、ある種キワモノ的な叙述形式で書かれている。このように叙述形式(=器)を内容と同様に重視するのは井上夢人の特徴の一つである。この作品の叙述形式が色物や下手物(げてもの)としてのインパクトを狙ったものではなく、器そのものにも凝るという井上夢人の持ち味の発露なのだと、そう理解していただきたい。その点を誤解して本書を敬遠するようなことがあれば、それは何より読者にとって大損であるから。
 井上夢人が器に趣向を凝らした作品といえば、なにより『99人の最終電車』である。1996年に連載開始し、2005年にようやく完結した大作だが――地下鉄銀座線の最終電車に乗降する人々を描いたこの作品の器は、実は紙ではない。つまり本ではないのだ。ではなにかというと、それはインターネットである。インターネット上のサイトに蓄積されたデータを、読者がWebブラウザというソフトウェアを利用して閲覧するという環境を、井上夢人は器としたのだ。そして、その環境の特色を活用することで、井上夢人は、最初の頁から最後の頁へ読み進むという読書の束縛から、読者と作者自身を解き放ったのである。具体的に言えば、ハイパーテキストという文書形式の特色を活かして、最終電車に乗降する99人の乗客の一人ひとりの心を読者が自由自在にのぞける仕組みになっているのである。読者は同じ車両に同じ時刻に乗り合わせた他の登場人物の心をのぞいてもかまわないし、あるいは、一人の登場人物の心理を時系列順にのぞいていってもかまわない。
 換言するならば、インターネットという環境を、単なる小説データの置き場として利用したのではないと言うことである。こうした姿勢は、『もつれっぱなし』において、全篇会話表現という器を選ぶだけでなく、その器を採用することによって生まれる死角を巧みに使いこなすという姿勢との共通点が感じられて興味深い。
 井上夢人は、独立する以前、すなわち岡嶋二人時代にも趣向を凝らした作品に挑んできた。その代表例が、1986年に発表した『ツァラトゥストラの翼』である。物語の断片に番号が振られ、順不同に並べられており、読者はいくつかの選択を行いながら支持された番号の断片を読み進んでいくというタイプの作品で、ゲームブックとしてカテゴライズされる。1982年のスティーヴ・ジャクソン&イアン・リヴィングストン『火吹山の魔法使い』(翻訳は1984年の社会思想社)を皮切りに、日本でもこうした作品のブームが起こっていたのだが、岡嶋二人にもこのスタイルで書いて欲しいという依頼が舞い込んだ。しかも、その依頼は、読者を探偵役にするというものであった。その趣向の持つ可能性に飛びついた岡嶋二人が書き上げた作品は、まさに、その器を活かしきったゲームブックであった。
 殺人事件の謎を解き、秘宝「ツァラトゥストラの翼」の行方を探るというこのゲームブックだが、他のゲームブックとは本質的に異なる点が一つあった。それは、読者が自らの推理で謎を解かない限り、結末に到達できないという点であった。他の作品であれば、例えば選択肢が三つあれば、そのすべてをしらみつぶしにたどってみれば結末への道は開ける。しかしながら、『ツァラトゥストラの翼』では、その手法が封じられていたのである。謎を解かない限り次に進む番号が得られないという関所が設けられていたのだ。それ故に、この作品は非常にスリリングなミステリーとして読めるものになっていたのである。岡嶋二人がその名前を冠して出した作品だけのことはある(註4)
 こんな具合に、昔から器を選び、その器を活かすことに長けていた井上夢人なのである。そこを理解していただければ、『もつれっぱなし』が全篇会話だからといって、形式の珍しさだけで読者を惹きつけようなどという姑息な作品ではないことは、十分に理解していただけるであろう。むしろ井上夢人が全篇会話という形式をどう活かしているかに、興味を持っていただけるのではないだろうか。
 
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 井上夢人は、自分の作品について、脳のなかのことばかり書いていると分析している。その意味では、この『もつれっぱなし』も耳から飛び込んでくる会話だけで全体像を脳のなかに構成していくという造りになっており、まさしく井上夢人らしい作品といえよう。
 また、自分の頭のなかに誰かがいるというソロデビュー作『ダレカガナカニイル…』以降、井上作品の特色となっている〝非日常の日常への浸蝕〟というテーマも、普段とは異なってユーモアという衣をまとっているものの、たっぷりと練り込まれた作品集である。その面でもやはり井上夢人ならではの一冊なのである。
 井上夢人は、本書『もつれっぱなし』を発表した後、1997年にある作家の怪死から物語が全く予想もつかない方向へと展開していく『メドゥサ、鏡をごらん』、役に立たない超能力者が登場するミステリー『風が吹いたら桶屋がもうかる』、2000年に嗅覚という題材に正面から挑んだサスペンス『オルファクトグラム』などを発表する。だが、若いころに人を死に追いやってしまった男女四人のその後を長期にわたって描いた『クリスマスの4人』を2001年に発表した後、『99人の最終電車』の連載を除くと、表だった活動はしていなかった。
 しかしながら、井上夢人は2006年に入り、久しぶりに『the TEAM』という連作短篇集を刊行した。偽霊能者を中心にしたチームの物語であり、超能力の作中での消化といい、ユーモアといい、読みやすさといい、結末の鮮やかさといい、これは紛(まぎ)れもなく井上夢人の作品。それも良質な一品だ。近いうちにDVD化されるという『99人の最終電車』を含め、今年は井上夢人の新作が世をにぎわす一年になりそうであり、なんともワクワクする。
 そんな記念すべき年に、この『もつれっぱなし』が彩りを添えることとなった。井上夢人の特色が凝縮された本書にふさわしい役割といえよう。