解説

小森健太朗

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 合作者としても、単独作者としても、岡嶋二人と井上夢人が小説の名手なのは、衆目の一致するところです。本書『もつれっぱなし』も、井上夢人の名人芸が存分に満喫できる短篇集です。そしてまた本書は、井上夢人の創作技法を解析するのに、恰好のテキストでもあると思えるので、主にその観点から、この小稿を書いてみたいと思います。
 本書の本文頁を開けてごらんになればすぐにわかるように、本書は、全篇会話だけで構成された連作短篇集です。会話だけで書かれた小説というのは、過去に幾つも作例があるので、その形式自体としては、さほど目新しいものではありません。しかしながら、本書に収められた六つの短篇に共通する形式はそれだけではなく、全篇が男女二人の会話のみから成り、タイトルはすべて「~の証明」で統一されています。内容と構成を吟味すれば、全篇に共通する特徴をさらに挙げることができますが、いま挙げた点だけでも、本書の各短篇に課せられた、枷ともなる形式の枠は相当きついものがあると言えるでしょう。
 岡嶋二人時代の作品から、井上夢人名義の作品までを総覧してみると、井上は、ミステリ作家のレッテルをはられる作家の中では珍しく、シリーズキャラクター物や連作シリーズの占める比率が非常に少ないことがわかります。『岡嶋二人盛衰記・おかしな二人』(講談社)によれば、井上は自分のことを「飽きっぽい」性格であると述べているので、岡嶋、井上作品にシリーズ物が少ないのはそのせいかもしれません。そのかわり、というわけでもないでしょうが、たまにシリーズ物を書くときには、徹底的なまでに形式を整えるところがあります。岡嶋時代の山本山シリーズもそうでしたが、本書や『風が吹いたら桶屋がもうかる』などはさらに、凝りに凝った形式の統一ぶりで、まるで歌舞伎の舞台を見ているような気にさえさせられます。
 さて、本書で採用されている形式である、会話だけで小説を書くこととは、通常の小説を書くときとどのように違うでしょうか。筆者は、同人誌上に発表された、作家志望者の習作を色々と読んだことがありますが、そういった同人誌掲載作品には、会話だけで書かれたものをよく見かけます。筆者自身も、小説を書く練習をしているときに、会話だけの形式で書いてみたことがあります。粗筋だけは思いつくが、背景描写や人物描写のうまい書きかたが見いだせないとき、会話だけで書く方が楽に思えたりするようです。小説の書き方に暗中模索している者にとって、会話だけで書いてみることは、一つの入門的な試行形式になっているのかもしれません。しかしながら、一見一番やさしく見えるものが、実は一番難しいというのは、世の中のあらゆる技能や芸事によく見られることです。一見書きやすく入りやすく思える会話のみの形式ですが、その形式のもとに、ちゃんとした小説を仕上げるとなると、はたとその困難さに突き当たることになります。
 そう言えば、岡嶋二人名義で発表された短篇の第一作「罠の中の七面鳥」もまた、本書と同じく、会話だけで書かれた作品でした。むろん同人誌レベルの習作とはまるでレベルが違い、岡嶋時代の最初期からこんなにも技巧的な好短篇が発表されていたのは、一種の驚きでもあります。本作『もつれっぱなし』は、その岡嶋時代の最初の短篇よりさらにきつい制約の中で、一層円熟味を増した小説技法が披露されています。
 会話だけで作品世界を描くとなると、情景描写が省かれる分、会話の中身だけで情景を描出しなければなりません。また、登場人物の性格を、会話だけでくっきりと印象づける必要があります。情景や登場人物の性格を描出するために、説明的な台詞を挿入していては、自然な会話の流れが阻害されてしまいます。どのようにしたら、会話の中にそういった描写を自然に無理なく取り込めるか──会話文を読むだけならすらすらと読めますが、書く側の立場で考えるなら、こういう会話を書くのは大変難しいことがわかります。本書を、こういった観点から吟味してみれば、見事なまでの小説技法が駆使されていることが感得できるでしょう。
 たとえば、本書の第一篇、「宇宙人の証明」では、物語が始まって間もないところで、次のような会話があります。


「そんなとこに放り出さないでよ。暑苦しい。ハンガーぐらいあるわ。皺になるわよ」
「冷蔵庫、覗いてもいい?」

 たった二行の会話ですが、これだけで、この物語の舞台となる部屋の様子と、会話をしている二人の男女の性格と関係が、くっきりと浮かび上がってきます。読み流す分には、ひっかからずにすらすらと読み進めていける箇所ですが、小説を書く立場になってみると、こういう、名人芸と呼ぶにふさわしい記述は、なかなか書けないものです。
 こういった点で、本書は、井上夢人の小説技法の一面を、かなりはっきりと明示してくれます。それだけでなく、物語の筋(ストーリー)の流れ、構成もまた、普通の形式の小説よりもあからさまになっているので、全体像をとらえるのが比較的容易です。
 短篇であれ、長篇であれ、小説が読者を作品世界に誘(いざな)うものである以上、物語の序盤で、舞台となる背景を読者にわからせることがまず必要となります。推理小説であるなら、序盤でなにか読者を魅きつける謎が提示されるものですし、推理小説でないにしても、何か物語の興味の焦点となるものが、早い段階で読者に提示されるのが普通です。そして、いくつかの節目節目となる転機を経て、物語は終局に向けて動いていくことになります。
 会話だけで書かれている本書のような作品の場合には、そういった、物語への導入、興味の焦点の提示、節目と展開は、すべて会話だけで記さねばなりません。これを自然に無理なく物語の中に織り込むことは、通常の形式の小説よりも相当難度が高く、卓越した小説手腕が要求されることがわかるでしょう。
 本書が、井上夢人の小説の創作技法を解析するのに、恰好のテキストでもあると述べたのは、会話だけで、そういった導入や提示、場面転換がなされているために、その要素を抽出するのが、普通の小説よりも明示的で易しいという面があるからです。
 本書の各篇が「……の証明」という題名で統一されているのも象徴的です。この題名は、各作品の興味の焦点が何であるかを、あからさまに語っています。すなわち、


「宇宙人の証明」⇒はたして、それが宇宙人であるかどうか。
「四十四年後の証明」⇒はたして、これが四十四年後からなのかどうか。
「呪いの証明」⇒はたして、これが呪いによるものなのかどうか。
「狼男の証明」⇒はたして、彼が狼男なのかどうか。
「幽霊の証明」⇒はたして、この人物が幽霊なのかどうか。
「嘘の証明」⇒はたして、この言明が嘘なのかどうか。

 と、各篇はすべて題名となっている事柄が、証明されるか否かが、物語上の興味の焦点となっています。
 証明をするためには、さまざまな可能性を俎上に乗せ、吟味し、検討しなければなりません。反対意見も考慮し、必要なら論駁(ろんばく)していかなければなりません。証明するために議論を重ねていく過程の面白さは、本書にかぎらず、岡嶋二人、井上夢人作品全般の最大の魅力の一つであると言えるでしょう。
 他の岡嶋、井上作品においても、謎に立ち向かう登場人物が、さまざまな可能性を吟味し、検討していく議論がしばしば出てきます。こういう議論による検討過程の描き方では、現代作家の中で、井上の右に出るものはいないのではないかと思わせるぐらい、その本領が発揮されているところでもあります。
 本書は特に、会話のみから成る形式のもとで、まさにその議論によってのみ成立している作品集ですから、井上作品のエッセンスとも言うべきものが凝縮した形で表出していると言えます。
 たとえば、本書におさめられた「幽霊の証明」には次のような台詞が出てきます。


「……ディベートごっこしましょ、ってんなら、夜明かしでもやっちゃいますけどね。でも、突然、仕掛けられたって。物事には順序とか、秩序とか、ルール説明とか、ヨーイドンとか、ハッケヨイ残ったとか、そういうのがあるでしょ。……」

「……そうやって、全部、君のペースでもっていかれると、非常に戸惑ってしまうわけですよ。オレには、まだ、きちんと事態が呑み込めてないわけね。まず、前提条件を教えてほしいんだけど、もしそれが君のルールでは違反行為だったとしたら、前提条件じゃなくてもいいから、オレがなんとか入り込めるような隙間をあけてほしいんだよ」

「やんなっちゃうな。ゲームの、ルールを説明してほしいって言ってるんだよ。あのね、オレとしては、かなり面喰らってるのよ。突然、目の前にポツンとコマを置かれてさ、それで、はい、あなたの番よ、って言われても、それがどういうゲームなのかわからなくて、次のコマなんて置けないじゃないか」

 こういった台詞は、作者自身の(作中での)議論のルールや心構えを説明しているようにも読めそうです。はからずも、作中人物の台詞を借りて、井上が、作品中での議論や討議の進め方やルール、前提をどのようにとらえているかを告白しているかのように読むことができます。「ディベートするなら夜明かししてもよい」という内容の台詞などは、もしかしたら、作者が骨の髄までディベート好きであることを自己告白しているのではなかろうか、などと憶測したくもなりますが、そういう憶測をしたくなるほどに、岡嶋、井上作品の作中のディベートの描出は見事です。世の中によくあるミステリ小説では、しばしば見落とされたり、なおざりにされがちな、ありうべき可能性の検討が、岡嶋、井上作品では、実に丹念かつ的確に描かれていて、作中登場人物の知性の高さを印象づけています。それはまた、岡嶋、井上作品の水準の高さを裏打ちするものでもあります。
 しかし、井上は、そういう推理の過程での正統的な論理の使い手である一方で、あやしげな論理、おかしな論理を自在に駆使することができる書き手でもあります。
 議論の過程で用いられる論理には、一見もっともらしいが、実は怪しかったり不確実だったりするものがたくさんあります。そういった「論理」を積み重ねていけば、どんどんおかしな方向に話が逸脱していくことを主題とした井上夢人の作品に『風が吹いたら桶屋がもうかる』があります。本書『もつれっぱなし』での議論もまた、そういった、自走して逸脱していく論理の面白さを描きだしている点では、『風が吹いたら桶屋がもうかる』と共通している面があります。
 もちろん、ただ単に議論のための議論をしているだけでは、小説は面白くなりません。作中でなされる議論は、物語に有機的に取り入れられ、作品世界に奉仕するものでなければ、すぐれた小説作品とはなりえないはずです。
 それを可能ならしめているのが、しっかりした物語のプロットです。
 会話だけで構成された本書はまた、井上作品のストーリーの骨格を読み取る上でも、恰好の作品集です。
 物語のプロットや構成の枠組といったものは、さまざまな見かたが可能です。三段階に分けてみるなら、「序破急」という表現があり、後半にテンポが早くなる物語の構造をとらえるときには、非常にマッチしています。四段階でとらえるには、誰もが知っている「起承転結」という四字熟語があります。四コマ漫画の構成を分析するときによく用いられますが、長い小説作品にも、「起承転結」という骨格分析が有効であることは少なくありません。
 本書の作品も「序破急」や「起承転結」でとらえることは可能なのですが、もう少し仔細に、七段階の把握法を試してみるのも有効でしょう。援用するのは、グルジェフ=ウスペンスキーの「七の法則」です(「七の法則」についての詳細は、『奇蹟を求めて』(平河出版社)を参照してください)。このグルジェフが示した見かたは、小説の構造解析にも適用が可能です。
 「七の法則」は簡単に言えば、この世の出来事や事象を七段階に分けてみる見かたであり、別名オクターブの法則とも言います。音階にならって、その七段階は、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シとなり、シの次はまた最初のドに戻ってきます。各音は一音階の差をもっていますが、ミとファの間、シとドの間は、他と違って、半音階の差であることに留意しなければなりません。この二つの半音階の部分を、グルジェフの用語では「ショック」と呼ばれます。ある目的をもって始められた行為が、三段階め(ミ)から四段階め(ファ)に移るときと、七段階め(シ)から最終段階(ド)に移るときには、所期の方向とは違う方角へ曲げる力が加わるものであるとグルジェフは述べています。たとえば、キリスト教という宗教は、誕生したときの意図と目標では、友愛と平和を説く宗教だったのに、国家宗教となり(第一のショック)、中世で異端審問を行なうようになって(第二のショック)、当初の意図とは正反対の、残虐な弾圧を行なうものに変貌してしまいました。世の中の色々な事象や運動が、いつの間にか当初の意図や目的から逸れていくのは、常日頃私たちがよくお目にかかる光景でもあります。
 本書の短篇も、会話の流れで物語が進み、いくつかの箇所で流れを変える「ショック」が用意されています。およそ物語を七つのパーツに切り分ければ、導入部があり(ド)、男女の会話が進行し(レ~ミ)、それに続く場面で、最初のショックが提示されることによって、物語の興味の焦点が何であるかはっきりと示されます。先に記したとおり、題名となっている事柄が証明されるかどうかが興味の中心であることが、そのショックによって示されます。そういった箇所は本文中では行あきになっているところにあるので、具体的にどの場面を指すのか、探してみるのも一興でしょう。
 そしてまた物語はファからソ、ラ、シと進み、終盤の段階で、第二のショックが待ち受けています。それは意外などんでん返しであったり、前面と後背景の反転であったり、思い込みに対する肩すかしであったり、ありようはさまざまですが、それまでの話の流れの向きを変える〈ショック〉であることは変わりありません。前半と後半にそれぞれ配置されている二つのショックが、各篇のストーリー構成のかなめになっている点では、各作品とも共通しています。
 この〈七の法則〉による構造把握は、むろん、他の井上作品にも適用することは可能です。
 あれやこれやと述べましたが、本書を楽しむためには、以上のような考察や知識が必要なわけではありません。
 この解説はほんの参考程度にとどめて、まずは、この作品集をストレートにお楽しみください。