この『ダブル・プロット』は、1989年に発刊した『記録された殺人』に、未収録の岡嶋作品3作を加えた新装版です。(なんだか遣り口がとってもあざとく感じられますが、目を瞑ってやってください。この不況の中、出版社も必死なのですね)
なにせ、どれも30年近くも前の短篇です。読み返して、そのあまりの若書きに、気を失いそうになりました。洟垂れ小僧が精一杯背伸びをして虚勢を張っているのが、とても恥ずかしく感じたのです。ただその一方で、そういう若かったころの自分たちに、どこか懐かしく郷愁めいたものを覚えていたりもします。
そこで、今回新たに収録されることになった3作品について、執筆当時の記憶をほじくってみたいと思います。
最終的にはどうやら芸能誌のような形態に変化しちゃったようですが、創刊当時「月刊カドカワ」という雑誌は《総合文芸誌》という触れ込みでした。『こっちむいてエンジェル』と『眠ってサヨナラ』は、デビューして間のない、まだよちよち歩きをし始めたばかりの岡嶋二人が、そんな「月刊カドカワ」に書いたシリーズ連作です。
ただ、このシリーズはここに載せた2作しか書いていません。ちょうどそのころ《野生時代》に書いた『タイトルマッチ』という長編をきっかけにして、作者と角川書店の折り合いが悪くなり、「月刊カドカワ」にも書くことをやめてしまったからなのです。
もともと、このシリーズは女性編集者を主人公に据えて、《性差別問題》を取り上げたいという主眼で書こうと目論んだものでした。なので、担当編集者を通じて女性編集者の何人かに取材をさせてもらいました。でも、作家経験の浅い僕たちは、あまりにも取材の仕方を知らなさすぎました。「女であることが仕事をやりにくくさせていることはないか」だの「どんなハラスメントを受けているか」といった質問ばかり繰り返したために、作者は取材相手から「とんでもない女性差別者だ」という目で見られることになってしまい、完全に拒絶されてしまったのです。あの時代、男の作家が女性の立場を描くなんて、あまりに無謀な試みだったのかもしれません。差別者側のお前が何を言うか、と女性に言われたら、沈黙するしかありませんよね。
結局、このシリーズは中断ということになり、他の雑誌へ引き継がれることもなく自然消滅してしまいました。シリーズものでありながら2篇しかないというのは、まことに座りが悪く、これまで、どの短篇集にも収められることがありませんでした。
一方、『ダブル・プロット』は一風変わった形で書かれたものです。
1回かぎりのものでしたが、小説現代が「同一記事挑戦競作『江ノ島心中』」という企画を立てたことがあります。その競作に参加したのは、佐野洋氏、都筑道夫氏、石沢英太郎氏、海渡英祐氏、そして岡嶋二人でした。つまり作品冒頭に登場する新聞記事は同じもので、その記事をネタにして、それぞれが35枚の短篇を書くというものだったのです。
デビューしてまだ1年も経っていない僕らは、大先輩たちとの競作だと聞かされて大いにビビりまくった覚えがあります。精一杯の背伸びをして書いたものの、その出来栄えはやはり新人作品の域を超えるものではありませんでした。こういう企画物だったこともあって、この作品はどの短篇集にもそぐわず、今まで未収録として取り残されていました。
実は、この作品は、原稿提出間際になって急遽書き直した記憶があります。最初に書き始めていたものが、かなりヤバイと思われたからでした。
最初僕たちは、冒頭の新聞記事は編集部の創作だろうと思い込んでいたのです。ところが、これは実際に新聞に報道されたものそのままでした。とんでもない勘違いでした。
記事は女性2人の心中事件を扱ったものだったのですが、僕と相棒は、この記事からこれが心中などではなく《殺人事件》であるという完璧な根拠と推論を引き出してしまったのです。しかし、記事が事実だということを知らされて、僕たちはまたビビってしまいました。
まことに思い上がっていたものだと赤面するしかありませんが、自分たちの推理が事件の真相をついているように思えて仕方がありません。亡くなられた2人の女性の遺族のことを考えたとき、とてもそのままの形では発表できないと僕たちは結論しました。遺族の方たちの誰かがもし僕らの小説を読まれたら……と考えると、原稿が書けなくなってしまったのです。
担当編集者と相談の上で、作品はまったく荒唐無稽の物語に置き換えられることになりました。作品が記事の内容には踏み込まず、楽屋落ち風の仕上がりになっているのはそのためです。
なお念のために申し上げておきますが、実際の岡嶋二人が、ここで描いたような執筆をしていたわけではありません。くじ引きでどちらが書くか決めるなんてしないですよ、そんなこと(笑)。
いやあ、どうにも懐かしいです。