解説

高橋克彦

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 同業者ゆえの嫉妬や敵愾心の含まれるライバル意識というものが、むろん文筆の世界にもある、と思われがちだが、現実には存在しない。この世界に生きて18年を過ごした私が言うのだから確かな話だ。これにはさまざまな理由がある。その最たるものは、スポーツなどの世界と違って、おなじコートやトラックの上で競う状況がないということだ。いかにも書店には同時にたくさんの本が並び、ベストセラー情報などを目にすれば競っているように思われるだろうが、物書きにすれば完成された本とはすでに心がだいぶ離れている。連載中や書き下ろしに取り組んでいるときが、いわゆる戦っているときなのである。あとはその結果に過ぎないので、案外と冷静に見ていられるものだ。もちろん売れるのに越したことはないけれど、そこはまたたいがいがある程度の年齢に達しているから、客観の立場に自分を置いていられる。他人は他人、自分は自分と割り切って羨むこともない。もう1つ大きいのは分野という、スポーツで言うなら柔道やボクシングのような階級制があるせいだろう。たとえホラーが流行していても、歴史小説作家はそれに焦りを感じない。自分とは違う分野と無視していられる。
 ではおなじ分野の相手に対してはどうなのか? これも実は恐ろしい理由があってライバル関係が成り立たない。たいていが自分の仕事をやり遂げるのに精一杯で、互いの小説を熱心に読んでいないのである。相手の力を認識しない限り、ライバル心など持ちようがないではないか。と言いつつも、小説を書く辛さは自分の経験もあって分かっている。読んではいないけれど、1つを完成させるまでに煩悶や忍耐をどれほど重ねたか承知しているのだ。だから反対に仲間意識が強まる。初対面の相手であっても、パーティなどで顔を合わせれば親近感の方が先に出る。なにしろ同業者が極端に少ない世界なのだ。私の暮らしている岩手県はそれでも専業作家が多く在住しているところと言われているが、児童文学の作家まで含めたとしても12~3人のものだ。それ以上の従業員を抱えている店や会社は岩手県にだって無数にある。
 だが──
 嫉妬や敵愾心と無縁で、尊敬と愛が込められたライバルというのであれば、私にもたった1人だけ存在する(2人と書くべきか)。
 岡嶋二人さんだ。
 岡嶋さんとの付き合いは長い。私より1期前の江戸川乱歩賞の受賞者なので、かれこれ18年にもなる。
 言うまでもなく物書きはデビューして5、6年が一番大切な時期である。その間に踏ん張って良い作品を発表していかないと読者や編集者に見限られてしまう。そこである程度認められたなら、もう5年は頑張れる。別に方程式があるわけではないのだが、10年以上のキャリアを重ねている作家のほとんどがそういう道を歩んでいる。編集者もそこは心得ていて檄を飛ばす。将来のために今は死ぬ気で取り組みなさい、と。物書きの道で生きるしか私には残されていなかったから、必死でワープロと向き合った。ちょうどそのときに岡嶋さんもおなじ苦しい坂道を登っていた。作風が極端に異なるので敵愾心は微塵もない。新刊が出るたび面白く読んでは自分の励みとした。そのうち、これがライバルというものかも知れないと思いはじめた。私の親近感とは関係なく、激しいシーソーゲームが開始されたのだ。
 乱歩賞は岡嶋さんが1年先輩である。それから3年後に岡嶋さんは『チョコレートゲーム』で推理作家協会賞をあっさりと射止めた。おなじ年、私は『総門谷』で吉川英治文学新人賞を頂戴し、さらに翌年には『北斎殺人事件』で岡嶋さんに続く推理作家協会賞に選ばれたわけだが、そのまた翌々年には『99%の誘拐』で岡嶋さんが吉川英治文学新人賞を受賞するという具合である。その当時は渦中にあったので不思議な因縁とも感じなかったが、今思うとまるでご都合主義に貫かれたスポ根マンガのような展開だ。わずか6、7年の間に私と岡嶋さんは3つの賞を巡って取り合いをしている。
 これをライバルと言わずしてなんであろう。吉川賞の授賞式に出席して岡嶋さんと話していたら井上夢人さん(岡嶋二人のうちのお1人)が苦笑混じりに「なんだかホッとした」と洩らしたのが忘れられない。ああ、やっぱり岡嶋さんも私のことをライバルと認識してくれていたんだ、と分かって嬉しかった。この「嬉しかった」と感じたところが、世間で言うライバルとは違う点である。敵ではなく真の仲間としておなじ戦場を駆け回っていた気分と書くのが正解だろう。
 あのときは大勢の編集者や文筆仲間が側に居たので果たせなかったが、本当は抱き合って互いの健闘を褒め合いたい気持ちだった。岡嶋さんが良い仕事をし続けているからにはこちらも気を抜くことができない。岡嶋さんに笑われるような出来にはしたくない。デビュー以来の5、6年、それが常に頭のどこかにあった。変な話だがワープロをデビュー直後に導入したのだって井上夢人さんの影響だ。あるとき井上さんのお宅に伺って、その当時はまだ珍しかったワープロを見せられた。その印字のあまりの美しさに驚いた。東京から戻った翌日に私はワープロのリース契約を結んだのである。リース契約でもしなければ用いられないほどワープロが高価だった頃の話で、確か18年前で200万以上したと思う。それだけ私が岡嶋さんの仕事を気に懸けていたという証しだ。
 なんだか解説とはほど遠いことばかり書いている。同業でも滅多に他の人の作品を読まないのに、岡嶋さんのものばかりは熱心に読んできたという、その一事だけを伝えたいがためにこういう結果となった。少なくともあの時代、私が1番に熱中していた作家は岡嶋二人であったと言い換えてもいい。
 おかしな二人をもじった筆名通り、実に奇妙なストーリーを構築する。明るくて読みやすく、それでいて緻密で深い。私にはとても書けない世界ばかりなので、ただただ楽しませて貰っていたわけだが、読後はいつも唸るしかなかった。
 この『殺人者志願』もその典型だ。
 30頁辺りまで読んで、後半からの展開を予測できる者などこの世にだれ1人として居ないだろう。軽いタッチのユーモアミステリーと見做す。ところがどっこい、中盤にとてつもない逆転が起きる。それから開始されるジェットコースター的進展。まったく信じられないことが積み重ねられていく。これをどうやって収束するのか……もはやミステリーとして解決などつけられそうにない。目まぐるしく変わる状況を頭に刻み付ける暇さえないのだ。そして唖然とするいきなりの大団円。1つの告白によって、全部が氷解する。至るところに伏線が張られていたことにも気付かされる。当時読んだときにはただびっくりさせられたものだが、こうして読み返してまったく古びていないことに驚嘆した。つまりはこの分野において他のだれもがいまだにこの作品を越えることができないでいるという意味になる。新しいものの誕生で以前のものは古くなる。ほとほと凄い才能だ。
 こういう才能と競い合っていたという幸運を私はしみじみと感じている。