松下陽之介は、区役所に勤める、気の小さな、どこにでもいる男である。だがひとつだけ、凡人と異なる秘密があった。彼は超能力者なのである。
ヨーノスケにとって超能力は「趣味」だった。彼は、小学校の頃、ユリ・ゲラーという男がテレビに出てスプーン曲げをしているのを見て、えらく感動してしまったのだ(ユリ・ゲラーは1974年3月に来日してテレビに出演した。全国の少年がスプーン曲げに挑戦したものだ)。試しに自分でもやってみたら、みごとスプーンを曲げることができた。それ以来、ヨーノスケは超能力の練習をすることにハマってしまったのだ。
ヨーノスケの友人で、本書の語り手の三宅峻平は、ヨーノスケの住んでいる倉庫に居候しているフリーターだ。同居しているおかげで、いつもいつもヨーノスケの超能力の練習を見ており、いささか食傷気味。
たとえば、出前でラーメンを取ったとする。ラーメンが届くと、ヨーノスケはやおら超能力で、手を触れずに割りばしを割ろうとする。割りばしが割れるまでにおよそ30分。ラーメンはとっくに伸び切ってしまっている。
これなら、さっさと手で割ってしまった方が早いし、おいしいラーメンが食べられる、とシュンペイは思う。超能力を使うより、使わない方が有効である場合、超能力を使うことに何の意味があるのか、何の役に立つのか、と考えるシュンペイはリアリスト、現実主義者といってよい。だから、「超能力というより、低能力といったほうがいい」と揶揄しているシュンペイには、ヨーノスケの能力を頼って助けてもらおうとする人の気が知れない。
たいていは、シュンペイのバイト先である牛丼屋に、悩みを抱えた依頼人(?)たちがやってくる。みな、美女ばかりである。美人に弱いシュンペイは、その頼みを断ることができず、ヨーノスケと同居している倉庫へと彼女らを案内することになる。
そこで依頼人たちは、必死に超能力の練習をしているヨーノスケと、その傍らで本を読んでいる「蒸しアンパンみたい」な顔をした男と出会うことになる。
男の名は両角一角。モロズミ・カズミと読む。だがシュンペイは「イッカク」と呼んでいる。自称パチプロで、金がなくなるとパチンコ屋に行って稼いでくるようだ。
イッカクが読んでいるのは、たいていがミステリのようだ。依頼を受けたヨーノスケが超能力を発動させていると、突然読み終った本をくさしながらイッカクが割り込んでくる。そのくさす言葉が面白い。
「こんな非論理的な名探偵を、よくも恥ずかしげもなく書いたもんだ。読まされるこっちの身にもなってみろ」
「なにが華麗な推理の冴えだ。ただのこじつけを推理とは呼ばんのだ。だいたい、設定が不自然に過ぎる」
「探偵小説かと思ったら、単なるサスペンスだった。論理も何もない」
どこかで一度は聞いたことがあるような、あるいはあなたがミステリ・ファンなら、一度は言ったことがありそうな文句だろう。いわれた作家はたまらないだろうが(笑)。
これらの発言から、どうやらイッカクは、ミステリの中でも〈本格〉と呼ばれるジャンルの作品を好んでいるようだ、と想像できる。
いわゆる本格ミステリの魅力がどこにあるか、というのは、一概にはいえないが、ひとつには、名探偵(役)の論理的で「華麗な推理の冴え」を楽しむというところにあるだろう。
「名探偵みなを集めて「さて」といい」というよく知られた戯れ句は、本格ミステリの定番に対する皮肉であろうが、読み手が本格ものを読んでいる時に感じるワクワクする気持ち、期待の瞬間というものを、みごとに抽出し得ている。
ところで名探偵(役)が「さて」と言った時に読み手が期待するのは、いかに論理的に謎をとくのか、という点にあるように見えて、実は、ある問題とそれに対する解答との間に、どのようなつながりを付けて見せるか、そのつながりを語る語り口の面白さであるように思われる。そして、問題と解決とのつなげ方に飛躍があればあるほど面白い。その飛躍の面白さを演出するためには、問題の設定を解答からかけ離れたものに設定することが望まれる。したがって名探偵(役)は、ある事柄の認識に対して、その捉え方の角度を変えるという形で、問題の提示者になることも多い。そこに示されるのは、名探偵(役)の、ひいてはその創造主である作者自身の、世界の捉え方、認識の方法である。そのように考えれば、本格ミステリの読み手は、自分を取り囲む世界の新しい認識方法を楽しんでいるのだ、ということも可能だ。
閑話休題。イッカクは、それまで読んでいたミステリの悪口を言った後で、おもむろに依頼人に質問を仕掛ける。ヨーノスケが超能力で真相に到達する前に、さまざまなデータを検討した上で、論理の力で解決してみせよう、というのである。
以上のような前ふりを経て、本書に収められた各編は、日常の謎を扱った本格ミステリとしての顔をあらわにするのだ。
イッカクはいってみれば、安楽椅子探偵を試みようとしているのである。安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティヴ)というのは、事件の現場に足を運ばずに事件の謎を解いてみせる探偵(役)のことである。バロネス・オルツィの〈隅の老人〉シリーズが先駆的作品と目されている。より純粋な作品としてはハリイ・ケメルマンの「九マイルは遠すぎる」、ジェイムズ・ヤッフェの『ママは何でも知っている』、アイザック・アシモフの〈黒後家蜘蛛の会〉シリーズなどが、よく知られている。
わが国で最も古い作例は、佐藤春夫の『オカアサン』かと思われる。その後、高木彬光の『成吉思汗の秘密』などのような試み(ベッドに寝たまま推理するのでベッド・ディテクティヴと呼ばれる)もあるものの、ミステリの趣向として意識的に採用されたのは70年代以降である。鮎川哲也の〈三番館〉シリーズや都筑道夫の〈退職刑事〉シリーズ、阿刀田高『Aサイズ殺人事件』がよく知られており、近年では北村薫の春桜亨円紫シリーズや西澤保彦の『麦酒の家の冒険』がある。
純粋に頭脳プレーだけで真相に到達するので、本格ミステリのサブ・ジャンルの中でも、もっとも本格的な作風として受け取られることが多い。
さて、イッカクの推理を聞いた依頼人は、その意外な解決にびっくりし、ヨーノスケのことなど忘れ去って、飛びだしていく。
ところが、である。小説中のえせ論理性を罵倒し、厳密な論理によって真相に到達しようとするイッカクだったが、悲しいことにその推理はいつも的外れなのである。戻ってきた依頼人が真相を報告するのを聞いた後、シュンペイが揶揄するとイッカクは「論理の筋道に破綻はない。あれは、あれでいいのだ」「論理に破綻はない。破綻がなければ、それもまた真実なのだ」「論理に破綻はない。重要なのは、結果ではなく、それを導き出した過程なのだ」「論理に破綻はない。私は、可能性を示唆しただけのことだ」といって、その自信は盤石として揺るがない。
イッカクの推理法は、演繹的推理と呼ばれるものだ。哲学者・論理学者の沢田允茂によれば、その推理規則は、問題Pと解答Qの間に「PならばQ」という結合が成り立つとき、もしPが正しければ必然的にQも正しい、というものである。ただし、「PならばQ」という結びつきが正しいかどうか、Pが実際に正しいかどうかは、いっさい考えない。「それは「いい方」や「考え方」の正しい形式を示すだけであって、いうことの内容や考えることの対象については無関心である」のだという(「推理小説と論理的思考」)。つまりイッカクの論理的な推理とは、与えられた限りのデータは根拠なく正しく、すべて解決のために必要なデータであると前提され、「PならばQ」という結合の合理性を問うことなく運用したものなのだ。したがって「論理(の運用に)は破綻がない」とイッカクが言うのも、必ずしも間違いではないのだが、検証を伴わない運用は、ついには真相に到達しえないわけである。
厳密な論理による推理の実践を説くイッカクのありようは、本格ミステリ・ファンが名探偵に抱くイメージそのままといってよい。だが、論理的な推論を厳密に(形式的に)使用すればするほど、真相は遠ざかるという悲喜劇を演ずることになってしまう。つまり本書は、名探偵(役)の名推理を楽しませるのではなく、迷推理を楽しませる、いわば名探偵もののパロディを企図した、遊び心あふれる作品集なのだ。
飛びだしていった依頼人が戻ってきた時、ヨーノスケの超能力は真相に到達する。そして依頼人の美女にはすでに恋人がいることも分かり、シュンペイはがっかりする、というのが毎度お馴染の展開となっている。さまざまな伝統を踏まえた、良質のシチュエーション・コメディにも似た味わいも、合わせて楽しんでいただきたい。
最後に、ちょっとお勉強。本書全体の題名と収録されている各編に使われている「風が吹いたら……桶屋がもうかる」という奇妙な論理の出典は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』である(原典は「桶屋」ではなく「箱屋」となっているけれど)。『膝栗毛』がオリジナルではなく、さらにその前の『世間学者気質』(無跡散人)などから取られたものらしいが、本書が面白いのは、各章のタイトルと章の内容とが有機的な関係をまったく持っていない点である。各編のタイトルと内容のズレは、イッカクの推理が実際の真相からは大きくズレていることと照応しあっているわけで、何とも心にくい趣向といえよう。