解説

大矢博子

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 本書『the SIX』について語る前に、井上夢人の別作品『オルファクトグラム』(講談社文庫)の話から入りたい。
 2000年に刊行された『オルファクトグラム』は、〈匂いが見える〉という能力を持つ青年がその力を活かして殺人犯を追うミステリだ。様々な匂いがそれぞれ異なる色や形をした結晶のように見えるという描写のディテールに唸り、それを手掛かりに犯人を追うという斬新な展開にワクワクした。実にエキサイティングで、スリリングで、そしてハートウォーミング。超能力を扱うことが多い井上作品の中でもファンの支持が高い一編である。
 だが実は、この物語で私の中に最も強い印象を残したのは、主人公のミノルが随所で抱く孤独感だった。
 周囲の人はミノルの能力に理解があり、気味悪がったり差別したりする人はいない。むしろ「すごいね」と称賛する。「便利だね」と感心する。それでも彼はときどき、周囲との断絶を感じるのだ。
 なぜなら、自分が見ている世界を誰とも共有できないから。
 いくら説明しても同じものを見てもらうことは不可能で、それでも、いや、だからこそ、自分の〈嗅いだ〉ものを伝えたい、わかってほしいという思いが募る。どんなにすごい力でも、どんなに人の役に立とうとも、どこまで行っても自分ひとりだけの世界に彼はいる。僕はひとりぽっちだ、とミノルは感じている。
『オルファクトグラム』はあくまで超能力による犯人追跡ミステリであり、超能力者の孤独がメインテーマではない。彼の感じる孤独感は、ミステリの本筋が持つ疾走感や興奮を妨げるほどには深堀りされない。だからついつい見過ごしてしまうのだけれど、ラストシーンに注目。さすがに具体的にここに書くわけにはいかないが、とある人物が、ミノルと同じ能力を持つ人が他にいるといい、という意味のことを言う。
「そうすれば、ミノル、ひとりぽっちじゃなくなるもんね」
 ふたりの会話(これが実にいい!)で物語は終わるのだが、これをラストに持ってきたということは、著者が描きたかったのはやはり彼の孤独と、たとえ同じ体験はできずとも理解してくれる人の存在の大切さなのではないか、と思ったのである。
 そして『オルファクトグラム』から十五年。『the SIX』が出た。本書を読んで、私は『オルファクトグラム』に感じた主人公の孤独感をまざまざと思い出した。あの作品に潜んでいたテーマが、こういう形で結実したのかと膝を打った。
『the SIX』は、まさに〈ひとりぽっちの超能力者〉たちの話だったから。
 
 本書は六つの短編からなる連作で、毎回特異な能力を持つ子どもが登場する。
 明日起こることが予知でき、それを絵に描く八歳の少女。
 他人の心の声が頭の中に飛び込んで来る中学生の少年。
 空気でナイフを作り、一瞬にして物を切ることのできる小学五年生の少年。
 虫を強く引きつける体質の四歳の女児。
 体から放電し、電撃を発射できる男子高校生。
 人の怪我や病気を治せる、中学生のヒーリング少女。
 第六話以外は独立した物語なので、どこから読んでいただいてもかまわない。そして第六話でこの六人が一堂に会することになる。
 こう書くと、なんだかアベンジャーズあるいはX-MEN的な、異なる能力を持った超人たちがチームを組んで悪を倒すぜイエーイ、みたいな話に見えるかもしれない。それを期待した方には申し訳ないが、まったく違う。最終話だけはそういう雰囲気がなきにしもあらずだけれど、目指すところはむしろ逆であるということをお断りしておこう。
 ここに出て来る子どもたちは、社会的弱者として描かれているのだ。
 たとえば、明日のことが予知できる八歳の遥香は、自分に見えるその景色が何なのかわからず怯えている。怖くて怖くて、学校にも行けなくなった。絵に描くことで恐怖を少しだけ外に出すことができる。そんな少女を、大人たちは「登校拒否」「イジメでもあったのかな」の一言で括る。
 他人の心の声が頭の中に飛び込んでくる中学生の克徳は、その声に耐えきれず突然「うるさい! やめろ!」と叫ぶ。耳に異状はなく、精神科や心療内科をたらいまわし。学校へも行けず、外出もしなくなった。
 空気のナイフではからずも人を傷つけた健太はそのことに恐怖し、養護施設を出てホームレスのような暮らしをしている。虫が集まって来るみさきにとって虫は友だちなのに、そのせいで頻繁な転居を余儀なくされている。放電体質の真生は常にアースのための装備が必要で、電気製品は壊れてしまうため家に置けない。ヒーリング体質の柳瀬は、逆に崇め奉られる。それもまた孤独だ。
 ポイントは、彼らが皆、幼児から高校生までの子どもという点にある。『オルファクトグラム』のミノルが特殊な嗅覚を得たのは二十代で、その能力がどういうものか自分で観察・分析できたし、人に知られることのリスクもわかっていた。相手と状況を見て話す知恵もあったし、この能力をどう使えば何ができるかという考察もできた。たまたまとはいえ、周囲には理解者が多かった。
 けれど本書の子どもたちは、自分に何が起きているのかわからないし、それを説明する力も持たない。自分だけが他の人と違うという事実の前にただ怯え、閉じこもっている。虫を呼ぶみさきにいたっては、幼さゆえにそれが他の人と違うということにも気づいていない。周囲は彼らをわかろうとせず、自分の常識内で彼らを「変わってる」と排除する。皆、本人にとってはそれが当たり前のことなのに、誰とも共有できず、誰にもわかってもらえないという孤独の中に生き、迫害を受けているのである。
 井上夢人はそんな彼らを描くにあたり、別の視点の人物を設定した。予知絵を描く遥香には、引きこもり経験のある遠縁の青年を。他人の声が頭の中に入って来る克徳には児童相談所の職員を。虫を呼ぶみさきにはいじめられっ子の小学五年生の男子を。空気でナイフを作る健太と放電体質の真生には、超能力者についての雑誌連載を持つ非常勤講師の飛島を。そんな〈近しい立場の他者〉の目を通して彼らを描くことで、超能力者側にのみ寄り添ったものでも彼らを闇雲に排除するものでもない、フェアな目で彼らの現状を捉えられるよう工夫されているのだ。
 各話には、彼らを理解しようとしない者、否定し排除しようしたり、見世物のように扱ったりする者たちの存在も並べて描かれている。そんな中で、青年は遥香の絵の意味に気づき、そこに描かれた悲劇を阻止するため奔走する。児童相談書の職員は克徳の言葉を信じ、その声が何なのか突き止めようとする。いじめられっ子はみさきの祖母にみさきを保護してくれそうな機関を紹介する。大学講師は健太に能力をコントロールする術を教え、真生の放電を「素晴らしい!」と褒める。
 理解者、である。自ら望んでそう生まれついたわけでもない、本人にとってはむしろ邪魔な能力に悩まされてきた超能力者たち。彼らにとって、まったく同じ世界を見ている仲間は存在しないものの、それでも「理解しよう」と思ってくれて、社会と共存の方法を見つけてくれる存在が、どれだけ大切か。そしてそれは言い換えれば、その能力を正しく理解し、正しく引き出し、正しくコントロールできれば、そう導いてくれる人がいれば、そんな仕組みが確立されれば、皆、社会の中で幸せに暮らしていけるという証明でもあるのだ。
 それが第六話だ。第五話までを読んだとき、「この先が読みたい」と思った読者は少なくないと思う。どの話も、子どもたちの能力が正しく理解され、彼らの将来に光が差したところで終わっているからだ。彼らが活躍するのはここからでしょ、という気持ちになるのは仕方ない。
 実際、第六話では彼らはその能力を使って、大仕事を成し遂げる。それはえも言われぬカタルシスを読者に与えるだろう。しかし第六話の核は、「彼らの能力はすごいんだぞ」ということではない。能力が役に立つことが素晴らしいのではなく、彼らが自分の能力を受け入れ、使い道を知れたことが素晴らしいのだ。他人にはない能力をはからずも持ってしまい孤独に悩まされていた少年少女たちが、同じような仲間と出会ったことによって孤独から抜け出し、能力と折り合いをつける方法を知って自信を持ち、〈救われた〉ことこそが、第六話のテーマなのだ。
 理解してくれる人がいて、同じ悩みを抱く仲間がいる。受け入れる姿勢と仕組みが社会にある。自分はひとりぽっちじゃないんだ、と知る。それこそが本書の最も重要なメッセージなのである。
 超能力を扱った別の井上作品に『風が吹いたら桶屋がもうかる』(集英社文庫)がある。コメディタッチの連作ミステリだが、この作品に出て来る超能力者のヨーノスケは、念力で割り箸を割るのに三十分かかるし、お湯を沸かすのに数時間かかる。普通に手で割り、ガスで沸かす方が何倍も便利だ。何の役にも立たない。それでもヨーノスケは〈趣味〉として自分の超能力を楽しんでいる。
 ヨーノスケの友人である物語の語り手が、こんなことを考える。
「特殊な能力を持っている人間は、どこにでもいる。暗算の得意な人間。故障したステレオを簡単に修理してしまう人間。足の速い人間。誰とでもすぐに仲良くなってしまう人間──同じことだ。その能力が、説明できるものか、そうでないかの違いしかない」
 そういうことなのだ。ここまで便宜上「超能力」と書いてきたが、それは〈説明できない能力〉でしかない。彼らが孤独なのは彼らのせいではなく、自分とは違う人を排除してそれで良しとする側のせいなのだ。誰だって、ちょっとくらい人と違うところはあるのに、勝手に普通と異常の線引きをする側のせいなのだ。その線が引かれる場所が少しずれれば、自分だって排除される側になるかもしれないのに。
 井上夢人は多くの超能力小説を通して、それを書き続けてきた。そして『the SIX』はそのテーマに真正面から向き合った、井上超能力小説の集大成なのである。
(おおや・ひろこ 書評家)