定例遅刻報告についてのご報告

講談社文庫出版部 新町真弓

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「たぶん、僕、自分がまだ書いたことないものを書こうと思ったときに、一番モチベーションが上がるタイプの人間なんです」
『ラバー・ソウル』連載開始時に、文庫情報誌「IN☆POCKET」(2010年6月号)のインタビューで、井上さんがおっしゃっていた言葉です。
 連載中、何度もこの言葉が私の頭をよぎりました。

 本作は杉江松恋さんが「IN☆POCKET」(2012年6月号)に寄せた言葉を借りると、「ボーイ・ミーツ・ガールタイプの恋愛小説であると同時に、理不尽な形でもたらされる死を巡る犯罪小説でもある」作品です(さすが上手におっしゃるな、と感心!)。それだけだって物語の完成度としてすごいのですが、さらにビートルズ6枚目のアルバム『Rubber Soul』の曲名と歌詞に呼応して描かれています。連載はそのアルバムの曲の順番通りに書き進められ、一回につき一曲分の原稿が届きました。しかも枚数はきっちりと毎号同じでした(最終回だけは枚数が1.5倍になりました)。インデザインで完成された原稿は、ページの中の句読点の位置まで意識されていました。
 うーん確かに、ストーリー上でも、構成上でも、誌面上でも、完全に自分で自分の首をしめ、手かせ足かせまでつけている状態ですね。「書いたことのないものを書こうとするとモチベーションが上がる」っていっても、これほどハードル上げなくても! と思ったこともあるくらいです。
 ただ、連載の原稿を受け取りながら、「これは誰も書いたことのないすごい作品になる」という手ごたえはありました。手かせ足かせがついているのに、それを見事にはらいのけて届く原稿は、(校了の直前ではありましたが)見事に完成されたものだったからです。私は恋愛小説も大好きなのですが、ミステリーである前に、主人公の誠の気持ちが切なくて切なくて。醜く生まれ(それも尋常ではなく)、金はあっても愛を知らない鈴木誠の犯罪から、目を離せなくなっていました。これ以上の内容については触れることができませんが……。

 ちなみに、『魔法使いの弟子たち』のときに小説現代の連載を受け取っていた北村文乃が、本HPで「井上さんから締め切りを延ばすための言い訳がきた」と書いていたのを読み、これは覚悟しないといけないかな? と思っておりましたが、果たして毎号、井上さんから言い訳メールを受け取り、校了前後に関係各所に調整をしておりました。しかしそのメールのタイトルが面白くて、少し楽しみにしている自分もいました。メールのタイトルを改めて見返してみたのですが、ちょっと挙げただけでもこんな感じです。

「Subject: 思考停止」「Subject: 人間失格」「Subject: 悪戦苦闘」「Subject: 一進二退、二進三退」「Subject: ブラックボックス」「Subject: なんでこうなんだろう」「Sublect:融けてないでしょうか」「Subject: ああ、最悪」「Subject: ごめんなさい、ごめんなさい」「Subject: 死闘中」「Subject: 定例遅刻報告」「Subject: 悪戦苦闘」「Subject: 挫折」「Subject: ええと、その」「Subject: 銃殺刑かもしれない…」「Subject: 書けていません」「Subject: ヤバイです」「Subject: どうにもこうにも」「Subject: ああ、やばいやばい……」「Subject: ご想像通り」「Subject: 大馬鹿者の井上です」

「定例遅刻報告」となると思わず苦笑ですよね。しかし驚くべきことは、これ以外に届いたメールを含めても、同じタイトルはたった一度「悪戦苦闘」だけなんです。これってすごくありませんか!? もしやメールを見返してタイトルが重ならないようにしていた? そんなはずありません。そんな余裕は一ミリもないことは知っています。これぞ井上さんの言葉のセンス。語り口調の本作が生き生きと魅力的な理由もよくわかります。ちなみに本作に警察官として私の名前をもじった男性が一瞬登場しますが、その言葉の「掛け替え」も岡嶋二人の回文名を彷彿とさせるセンスです!

 さて、毎号校了前後の徹夜は腹が立たなかったか? それが不思議なんです。編集者という人間はみなそうだと思うのですが、いただいた原稿が面白かったら、待っていたり仕事を調整したりしていたことを忘れて「あー、幸せ!」となるのです。校閲以下、関係各所が締め切りの限界に挑んだのも、みながこの原稿を楽しみにし、その完成度に舌を巻いていたからです。それに「産みの苦しみ」に一番苦しんでいらしたのは井上さんですよね。特に最終回が近くなった際の“陣痛ぶり”は、こちらが申し訳なくなるほどでした。私は分娩室の外で何もできずにオロオロしている夫状態。井上さんは常にラストシーンが決まってから小説を書き始めるとおっしゃっていて、本作もそうだったのですが、そこに至るまでにどの道を辿るのかに苦しんでいました。その甲斐あって連載で読んでいる方にとっても、最後のあの「驚愕」は見事に最終回まで少しも明かされませんでした。

 単行本になるにあたり、さらにブラッシュアップ&パワーアップした『ラバー・ソウル』。とにかく読んでみてください。絶対に損はありません。今はただ、このような作品の歴史的誕生シーンに立ち会えたことに「あー、幸せ!」と思っています。