解説

吉野 仁

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 日本ミステリー史にその名を残す合作作家、岡嶋二人がコンビを解消してから、はやいもので10年の月日が流れた。
 乱歩賞受賞作『焦茶色のパステル』から最終作『クラインの壷』までの8年間、数多くの名作が発表されたわけだが、いまだに岡嶋作品は読まれ続けている。すでに文庫になった作品がさらに再文庫化されているなど、根強い人気を誇っているようだ。
 その理由は、ミステリー小説としてきわめて質の高い作品が揃っているからだろう。
 当然、万人が認める大傑作もあれば、さほど話題にならなかったものもある。個人的には、『あした天気にしておくれ』(講談社文庫)、『そして扉が閉ざされた』(同)『99%の誘拐』(徳間文庫)、『クラインの壺』(新潮文庫)といった作品が気に入っているが、人によっては別の小説を高く推すかもしれない。作品ごとにそれぞれタイプやスタイルが異なるからだ。
 だが、なにより岡嶋二人の凄さは、決して傑作とは呼ばれていない作品を読んでみると判明する。どれでもかまわない。面白いのだ。読みだすとやめられないのである。
 たしかに評価の高いものと比較すると全体にいまひとつだったり、細部に粗さを感じたりはするだろう。強引な展開があるかもしれない。そのあたり、岡嶋二人ファンにとって必読の書といえる井上夢人『おかしな二人』(講談社文庫)を読むと、締め切りに追われ、不本意な出来で上梓しなくてはならなかった作品もままあるようだ。
 しかし、冒頭から引きこまれ、最後までぐいぐいと読まされるという点では、どの物語も同じである。この謎はどう明かされるんだろう。この人物はどうなってしまうんだろう。そう思って読んでいくうちに、先へ先へとページをめくる手がとまらない。ミステリー的趣向の奇抜さばかりではなく、ディテールの確かな舞台設定、共感の持てる登場人物や軽妙でテンポのよい語り口など、どの要素もしっかりしているせいか、自然と物語世界に没頭してしまうのである。
 ちょうど先に挙げた、岡嶋二人のコンビが誕生してから、乱歩賞を受賞し解消するまでの顛末を綴ったノンフィクション『おかしな二人』に、次のような一文があった。
〈そもそも、ミステリーは、謎を追う興奮を読者の中に誘発させることを最大の目標にすべき小説だ、と僕は考えている。〉
 ミステリーに求める愉しみは読者によって異なるかもしれないが──犯罪ミステリーの好きな私個人の場合でいえば、どれほど斬新なトリックやアイデアが用いられていたとしても、謎を解く過程でサスペンスの感じられない作品は苦手である。
 たとえば、不可解な謎の秘密が次第に探偵の論理的な推理によって暴かれ、最後に真実が明かされる、きちんとまとまったミステリーになってはいても、なにか自分でこしらえた迷路パズルを出口からたどってみせただけのような作品を手にすることがある。あらかじめ決めた犯人とトリックに向けて、いくつものミスディレクションをこしらえ最後にたどりつきさえすれば出来あがり、といった作者の思惑が透けてみえて、白けてしまうのだ。
 岡嶋作品では、そういった一面的で生硬な部分を感じることはない。岡嶋二人は、合作といっても、1人(徳山諄一=現・田奈純一)がアイデアを考え、もう1人(井上泉=現・井上夢人)が文章を書き、小説を生みだしていたようだ。この分担作業こそが、うまく全体に自然でバランスがとれていたミステリーを生みだしていた要因なのかもしれない。
 専門家ではないので確かなことはいえないものの、おそらくアイデアや論理的な流れを考えるときに活発に働く脳の部位と、人物描写や会話など小説としてのふくらみをもたせ文章を書いていくときに働く脳の部位は違うはずである。ここで俗にいわれる左脳と右脳(もしくは理系と文系など)の関係を当てはめてしまうのは、いささか短絡かもしれないが、いずれにしても、思考や表現の分野において、人それぞれ得意不得意があるのは実際あること。また、1人で同時にこれら相反する作業を続けるのは、脳にとって難しい作業となるのではないだろうか。どうしても得意とする方(脳のシノプスがつながりやすい方?)に偏ってゆくはずである。
 もしかしたら、合作によって生まれた利点のひとつは、こうした作業が無理なくできることにあるのかもしれない。最終的に文章を書く側は、先に井上氏自身が述べていた〈謎を追う興奮を読者の中に誘発させること〉に脳の神経を集中できるからだ。
 もちろん、ミステリー作家の場合、あらかじめアイデア、人物設定、ストーリーの流れなどを書いた〈箱書き〉をこしらえ、それにしたがって、筆をとり(ワープロを叩き)小説としての肉づけをしていく人がほとんどだろう。岡嶋二人の場合も、まず2人でアイデアやストーリーを練りに練り、それをもとに箱書きをつくってから文章に取りかかっていたらしい。これならば、1人も2人も条件としては同じようなものである。
 しかしそれでも1人で執筆する場合、頭の切り替え、その使い分けなどが必要となるだろう。また、相手が考えたアイデアならば、1歩おいてより客観的にとらえることが出来、再構築しながら書くことができるはず。文章を書く側は、物語づくりに、より専念できるのではなかろうか。
 きちんとした裏づけのない怪しげな仮説で申し訳ないが、岡嶋作品を読んでいて、作者の作為をほとんど感じることがなく、謎の解明に向けたサスペンスフルな展開に没頭できるのは、おそらくこうした理由ではないのかと考える次第だ。
 なにより、『おかしな二人』によれば、とくに雑誌の連載ものなどでは、執筆担当の井上氏は締め切りぎりぎりまで次の展開が分からなかったらしい。タイムリミットぎりぎりで徳山氏からアイデアや材料を渡されて、すぐさま書きはじめるといった綱渡り状態。こうなると、まるっきりの分担作業であり、書き手自身、謎を追いかけながら筆をすすめていくことになる。まさに場面ごと読者と同じ立場にいたわけだ。その興奮や緊張が伝わってきてもおかしくない。

 さて、前置きが長くなったが、本作品『ダブルダウン』も、もともとは1986年「週刊ポスト」に連載されたものだ。1987年に小学館から単行本刊行となり、1991年に集英社文庫におさめられた。全21篇ある岡嶋二人の長篇中、14番目に刊行された作品である。
 ボクシングの試合中、闘っていた2人の選手がほぼ同時に死んでしまうという事件をめぐる物語。ボクシングを題材にしているという点では、『タイトルマッチ』(講談社文庫)に続くもの。合作者の1人、徳山氏が「プロボクサーをめざしたことがある」ということが、アイデアや作品のディテールにあらわれているようだ。
 対戦中のボクサーが2人とも倒れ死んでしまった。しかも死因は青酸化合物によるものだった。大勢の観客ばかりか、レフェリーやセコンド陣、関係者など衆人環視のもとで、犯人はいかにして毒殺したのか……。
 なんとも衝撃的な事件をめぐるミステリーである。主人公は、出版社に勤務する男女だが、元ボクサーの作家が登場し、ともに事件を追っていく。試合を撮影したビデオテープの検証などにより、事件の謎が次第に判明していくかに思えたものの、やがて意外な真相へと向かう。
 いつもながらの軽妙さを保ちながら、物語は二転三転していくのだ。とりわけ後半になって、事件が急展開するあたり、緊迫感と意外性にあふれていた。ラストで行われる事件の解明は、かなり強引な感じがするものの、謎を解いたり秘密を追いかけたりする展開とサスペンスやユーモアなどが作品にうまく溶けこんだ、スリリングな小説として出来上がっている。
 ところが、である。
 これまで本稿でなんども引用している井上夢人『おかしな二人』によると、本作品は最悪の状況で執筆、連載されていった作品らしい(そのあたり、詳しくは『おかしな二人』を読んでいただきたい。ただし、この本は、できるかぎり岡嶋二人全作品を読んでから手にとることをすすめたい。かなり詳しく創作過程を明かしているため、未読作品はネタばらしになってしまうからだ)。いささか完成度が足りないのもそのせいだったのである。なにしろ、井上氏は、〈7ヵ月の連載だった。7ヵ月もかけて、僕たちは最低の作品を書いた。書かれた犯罪は陳腐で、登場人物の行動は行き当りばったり、構成は劣悪で、ストーリーにはメリハリがない。穴を掘って埋めてしまいたいような作品だった。〉とまで述べているのだ(なんと解説者泣かせの発言・作品であろうか)。
 それでも、読み終えた方ならばおわかりのように、娯楽性という観点からすると決してつまらないミステリーではない。これまで述べてきたように、岡嶋二人ならではの醍醐味が、この作品においても失われてないのである。
 また、ひょっとして、本作ではじめて作者の小説に触れるという読者がいるかもしれない。そういう方は、ぜひとも多くの岡嶋作品を読んでほしいものである。ミステリーが好きならば、岡嶋二人に出会えたことを必ずや幸せに思うだろう。