解説

武市好古

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 岡嶋二人が、おかしなふたりのもじりであることは誰でも知っていることである。そしてふたりの正体が、徳山諄一と井上泉であることもまた推理小説ファンには周知の事実である。
 だが、岡嶋二人について、みんなが知りたいと思っているのに誰も知らないことがひとつだけある。
 それは、ふたりがどういう分担で共作をしているかということである。
 岡嶋二人がその疑問に答えてくれないかぎり真実は誰にもわからない。
 わからないとなると余計に知りたくなるのが人情である。どっちがツッコミでどっちがボケなのか、どっちがピッチャーでどっちがキャッチャーなのか、どっちがアボットでどっちがコステロなのか、どっちがボブ・ホープでどっちがビング・クロスビーなのか、どっちがジェリー・ルイスでどっちがディーン・マーチンなのか、どっちがリチャード・ロジャースでどっちがオスカー・ハマースタインⅡ世なのか、どっちがエンタツでどっちがアチャコなのか、どっちがローレルでどっちがハーディなのか、どっちがジンジャーでどっちがフレッドなのか、どっちが明智探偵でどっちが怪人二十面相なのか、どっちがシンザンでどっちがウメノチカラなのか、どっちがロンでどっちがヤスなのか、どっちがナガシマでどっちがオーなのか、どっちがキヨヒメでどっちがアンチンなのか、どっちがウォルフガングでどっちがサリエリなのか、どっちがダフニスでどっちがクロエなのか、どっちがトクヤマでどっちがイノウエなのか、どっちがバースでどっちがカケフなのか、どっちがどっちでどっちがどっちなのか、謎が謎を生みその謎がまた謎を生む、そしてまた謎が謎を……?
 人情は妄想となり、着せ替え人形ならぬ箝げ替え人形のごとくふたりの首をつぎつぎと取り替えてゆくのである。だが犯人はどうしてもわからない、いや真実はどうしても見えてこないのだ。
「事実は真実の敵だ」とラマンチャの男はいった。岡嶋二人がおかしなふたりであるという事実にこだわるからいけないのだ。第一それが事実であるかどうかも本当のところはわからないではないか。最初からふたりのうちのひとりは偽者であるかも知れないのだ。どっちかは単なる友人で、あるいは従兄弟で、しゃれでふたりといっているのかも知れない。
 ひとりがただの鉛筆けずりだとしたらどうする。お茶汲みだったら? 清書係だったら? 肩もみだったら?
 岡嶋二人の原稿執筆中の姿を見たことが、見ることができない以上、真実はぼくの想像の及ぶかぎりの数だけあるのだ。

(  )が書いている。
 ドアを開けると、その音を聞きつけた雅子が走り出て来た。
(  )がそれをこう直す。
 ドアを開けると、その音を聞きつけた映子が走り出て来た。
「雅子でいいじやないか」
「いや、映子のほうがいい」
「どうして」
「雅子はお前の初恋の女だろ」
「いいじゃないか」
「よくない。子供だよまだ五つの。その名前が初恋の女じゃロリコンになっちゃう」
「なぜ映子なんだ」
「いい子だから」
「まさか」
「そうだ! 苗字は八坂にしよう」
(  )が書く。
 八坂は佳都子と並んでボンネットへ寄り掛った。佳都子が八坂の肩に手を置いた。顔を寄せてきた。自然に唇が合った。息が八坂の頬を撫でた。柔らかな唇だった。ほんの少し、甘い味がした。

 最初の( )といまの( )は明らかに書き手がちがっている。その証拠は「走り出て来た」と「顔を寄せてきた」にある。
 ひとりは"来た"と書き もうひとりは"きた"と書いている。やはりふたりで書いているのだろうか。きっとそうだ。
 そういえば昔、リレー小説というのが流行ったことがある。
 数名の作家が、話をつづけて書いて行く小説である。最初の書き手がつくったシチュエーションと人物が、次の書き手によって変えられ、たとえばコメディのはずがメロドラマになってしまったりする。そして最後の筆者になるとまた元に戻ったりもするし、あるいは最初とまるで違う話で終るかも知れない。
 岡嶋二人はこれをふたりでやっているのではないだろうか。話の大筋をあらかじめ決めておいて書きはじめるが、人物をふたりで分担して、八坂心太郎は(  )が、堀佳都子は(  )が書く。地の文は交替で書く。
 あるいは、(  )が脚本家で、(  )が演出家ということも考えられる。(  )の脚本を演出家の(  )がテキスト・レジをして直して行き、人物の行動や動作、表情などを演出する。

 事務所の扉が開いて、作業服姿の若い男が出て来た。男は扉を手で押さえ、どうぞ、という格好で中の人物が出て来るのを待った。現れたのは柳原絵美だった。例の手提げ袋を若者に持たせ、エナメルバッグとカメラだけ、手にしていた。
 あら、といった感じで、絵美は八坂を見た。
「シュガーキューブですか」
 と八坂は訊いた。
「こんな靴、履いて来るんじやなかったわ」
 と絵美はコートの裾を押さえて、ハイヒールの足を見せた。ハイヒールよりも、細く形のいい足首に目がいった。男たちの視線が、そこへ集まった。

 まるで映画の一場面を見るような文章である。ちょうど7カットに割れるように演出されている。これは明らかに演出家の仕事である。次の場面もそうだ。

「諸木さん」
 八坂が後ろから声を掛けた。びくりとしたように諸木は振り返った。絵美と違って、諸木は八坂を覚えていた。隣の佳都子に目を止め、口の端をぐいと曲げて二人を見比べた。
「珍しいところでお会いしましたね」
 薄笑いのようなものが顔に浮かんだ。ふん、と鼻を鳴らして腕を組んだ。
「こちらにはお仕事で?」
「ああ、まあね。そんなところだ」
 尊大な口調で答え、諸木は品定めするような目を佳都子に向けた。

 こういう細かく演出された文章が岡嶋二人の特徴となっている。ときどき演出が勝ちすぎているところもなきにしもあらずだが、こういう演出はないよりもあったほうがずっといいのである。
 ウソつき心理描写よりもリアルなアクション描写のほうが信用できる。岡嶋二人は意識的にそういう演出をとっている。
チョコレートゲーム』という昭和六〇年度の日本推理作家協会賞をとった作品をぼくは読んでいないが、そのテレビ・ドラマ化されたものを見た。
 これはひどい出来だった。演出が凡庸でとうていプロの仕事とはいえないものだった。台詞ばかり多くて、テンポがのろくて、俳優の動きにもキレがなく、やたら思い入れの多い演技をつけている。
 要するに岡嶋二人の小説のスタイルとは正反対のことばかりやっているのだ。

 ぼくは岡嶋二人の小説のスタイルをよしとする読者のひとりである。芝居でも映画でもそうだが、テーマそのものよりも細部の真実にこだわりたい観客なのだ。どんなに立派なテーマをかかげていても細部のウソを無神経に扱って平然という作品とその作り手は絶対に信用できないのである。
 推理小説には細部の真実がとくに大切だと思う。登場人物のリアリティもさることながら、ちょっとしたアクションや表情が大きな意味を持つのだ。大筋がウソであればあるほど、登場人物がウソつきであればあるほど細部の真実が重要になってくるのである。
 推理小説はウソとマコトの両花道をみごとに使いこなしたお芝居のようなもので、うまくダマしてくれなければこんなつまらないものはないのだ。
 ダマシ、ダマサレルよろこびがあってこそ推理小説といえるのである。
 そしてダマシのテクニックということでいえば、それは脚本家が種を蒔き、演出家が花を咲かせるものなのである。
 岡嶋二人の場合、このコラボレーションが実にうまく行っている。だから新鮮なのである。おもしろいのである。
 なんだかいつの間にかふたりを脚本家と演出家に分けた結論を出してしまったが、果してこれが正解なのだろうか。もしそうだとしても、一体どっちが脚本家でどっちが演出家なのか。もしかしてどっちも……。

(附記)文中の(  )に二人の名前を入れて遊んで下さい。解答はありません。