解説

杉江松恋

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 まずは歴史的事実を。
 第28回江戸川乱歩賞は1981年に募集が行われ、翌年1月末の締切までに230という、当時としては空前の多数の応募があった。その中から、岡嶋二人「焦茶色のパステル」、須郷英三「長い愛の手紙」、高沢則子「ローウェル城の密室」、中津文彦「黄金の砂(刊行時『黄金流砂』と改題)」、深谷忠記「ハーメルンの笛を聴け」、雪吹学「ミスターXを捜しましょう」の6編が最終候補に残り(これも異例で多い)、岡嶋・中津両氏が栄誉に輝いた。深谷は同年に別の作品で作家デビューを果たすし、応募時16歳ということで話題になった高沢は後年に別の名義でやはりプロになっている。現在の名前は小森健太朗である。こうした顔ぶれを見れば充実の回であったことがわかるはずだ。
 岡嶋の作品は満場一致で選考委員から授賞を認められたという。少し長くなるが、各委員の選評を抜粋して紹介しますね。

生島治郎 「焦茶色のパステル」は新人らしからぬ見事な作品である。ストーリイの展開の仕方と言い、伏線の張り方と言い、申し分がない。(中略)他の銓衡委員から、あまりにも手なれすぎているという意見も出たが、この作者は自分の世界をちゃんと持っていて、その世界はこの作者独自のものであり、既成作家の作品のどれにも似ていない。(後略)
多岐川恭 「焦茶色のパステル」の作者については、達者さになにかをプラスしてもらいたい。漠然とした言い方だが。
都筑道夫 (前略)娯楽のための読物だからといって、読みやすく、わかりやすく、おもしろいストーリイが語られているだけで、いいものだろうか。予選通過六作品とも、英米でいえば二流、三流のペイパーバックス・オリジナル、といった書きかたをしている。いちおうのイメージが、こちらにつたわるように書いているのは、岡嶋二人さんだけで、その作品がすんなり選に入ったのも、当然だったろう。つまりデッサン力があるわけだから、岡嶋さん、十分やっていけるに違いない。あとは色彩に工夫をこらして、タブローをかく努力をしていただきたい。
西村京太郎 (前略)トリックあり、意外などんでん返しあり、活劇場面もありで、うまく出来すぎているのが、難といえば難であるが、とにかく、この人は書ける人である。
山村正夫 その中で選考委員全員が一致して推したのは、岡嶋二人氏の「焦茶色のパステル」である。競馬の知識のない者にも面白く読ませる巧みな構成と達者な筆力は、他の候補作を圧倒していた。昨年度は惜しいミスが祟って賞を逸したが、将来性という意味では技量に一番安定感のある作者のように思われる。(後略)

「たしかに巧いのだが達者すぎるのが難」とでも言いたげだ。『焦茶色のパステル』は岡嶋の最初の乱歩賞挑戦作ではなく、第23回、第25回、第27回にそれぞれ応募を行っている。第27回に最終候補まで残って受賞を逃したのが、83年に刊行された『あした天気にしておくれ』である。このときはトリックの前例と実行可能性について欠点が指摘されたのだが、岡嶋は後に同作の文庫版が刊行された際にそのいずれもが選考委員の誤解、もしくは不幸な取り違えであると指摘している。
 選評の中では生島と都筑のものに注目していただきたい。生島が『焦茶色のパステル』を指して「既成作家の作品のどれにも似ていない」と評したのは慧眼(けいがん)であった。この作品は後続の作家にも大きな影響を与え、現代ミステリーのありようを規定したといっても過言ではないほどの里程標的作品に「なった」からである。また都筑が、エンターテインメントに徹するだけでいいのだろうか、という趣旨の疑問を評言の中で提起していることも、1990年代以降にミステリー定義が拡散した歴史的事実を踏まえて考えると先見の明があったといえるでしょう。「読みやすく、わかりやすく、おもしろい」だけではないものを都筑はミステリーに求め、それが実現された作品こそを「タブロー(完成された絵画)」として認めると発言しているのである。ただ私は、『焦茶色のパステル』を単なる優秀なデッサン画ではなく、完成の域に達したタブローであると考えるのだが。

 では、どこが画期的であり、どう「完成」しているというのか。
 本文を読む前にこの解説に目を通す人も多いと思うので、『焦茶色のパステル』のあらすじを簡単に紹介しておこう。
 喫茶店『ラップタイム』で寛ぐ主人公・大友香苗を、見知らぬ二人の男が訪ねてくる場面から話は始まる。二人は刑事である。競馬評論家の夫・隆一の居場所を確認し、話を聞こうとしているのだ。前週の月曜日、隆一は茨城県にある東陵農業大学に柿沼幸造という講師を訪ねていた。その柿沼が、二日前に殺害されたのだ。隆一は不在であり、香苗に話せることは何もなかった。
『ラップタイム』と香苗が嘱託契約で働く『ヤマジ宝飾』は、同じ山路ビルの一階にある。その四階に入っている競馬予想紙発行の『パーフェクト・ニュース』で働く綾部芙美子は、香苗にとって気のおけない友人だ。彼女は本作で異常な事態に巻き込まれた香苗を補佐する重要な役割のキャラクターである。ちなみに『パーフェクト・ニュース』の主筆であり、社長でもある山路亮介と、『ヤマジ宝飾』の店主・頼子は夫婦である。これに『ラップタイム』のマスター・真岡良太郎を加えれば東京側の登場人物はほぼ勢揃いする。
 東京側、と書いたのには意味がある。開幕ほどなく、幕良(まくら)市(東北地方の架空都市)の警察署から電話がかかってきて、隆一が撃たれたことが伝えられるのである。現地にかけつけると、隆一はすでに死亡しており、幕良牧場の場長・深町保夫も銃弾を受けて死亡していた。そして奇妙なことに二頭のサラブレット、モンパレットとパステルも。
 香苗は現地に赴く。以降物語は、殺人現場のある幕良と香苗の住む東京の二箇所を主な舞台として進んでいくことになるのだ。『焦茶色のパステル』が先人から形式を借りただけの小説でないことは、香苗が幕良を訪れる最初の場面で早くも証明されることになる。実は彼女は、気持ちを通わせることができなくなった隆一との生活に疲れ、最後に別れたときに離婚を切り出していた。いわば他人への第一歩を踏み出しかけていた男の遺体に直面した香苗は、しかし「自分の顔が涙で濡れているのに気付」く。「なぜ、泣くのだ」と自分に訊き、自分が「大友隆一の妻」という役割に支配されていることに彼女は驚く。
 このエピソードは、主人公に奥行きを与えるための重要なものだ。隆一との別れを決断していたにも拘わらず、当人の突然の死によって決定的な瞬間を迎える機会を永遠に奪われた香苗は、宙ぶらりんのままの状態で取り残される。彼女は、哀しみや怒りといった、強いが一面的な感情によって動くのではないのである。実際には香苗が事件へと巻きこまれていく過程は、何者かに撒(ま)き餌(え)を与えられたかのように段階的なものである。だが、そうした段階を香苗が踏んでしまうのは、彼女の中心に「隆一」という欠落があるからなのだ。しろうと探偵が事件に巻きこまれるタイプのミステリーとしては、これはほぼ完璧な設定です。
 さらに人物設定について書くと、「配置」にも隙がない。作劇のセオリーの一つに、四角形に主要人物を配置するというものがある。「主人公」に対し「反‐主人公(主人公の対抗者)」、「協力者」、「妨害者」という三者を置く。この三者はあるときには主人公の背中を押す役割を務め、別のときには主人公に影響を与えて進む方向を変えさせる。物語はプロットの要請によって前に進んだり横に逸(そ)れたりするのだが、表向きは三者が主人公に対して働きかける形でそれが行われるのである。この四者は極めて早い時点で紹介される。そのため小説には最初から枠が存在しているように見える(今風に言うと、世界観が明示されているということです)。無論小説は大きくうねり、事件の推理のために必要な証人が後から登場したり、はじめは真意がわからなかった人の本音が開陳されたり、といった具合に絶えず動き続けているのだが、この枠があるがゆえに導線が常に読者の前に開示された状態になっている。強いキャラクターを作るとはこういうことであり、プロットの中で登場人物が生きているというのはこういう書き方を指して言うのである。
 こうした強固な小説の構造について、まずは指摘しておくべきでしょう。

 次にミステリーの部分だが、本作の肝は最前から書いているように香苗が事件について不審に思い、調べ始めて抜き差しならない事態へと巻き込まれていく過程にこそある。調査の間に浮かび上がってきた事実の一つは、隆一が死んだ二頭の競走馬についてなんらかの疑念を抱いていたということである。幕良牧場の競走馬を撮った写真を見た隆一は、ある言葉を呟く。その言葉の意味がわかると事件の背後関係はある程度明白になるのだが、当然のことながら容易には判明しない。真相に至る道筋はこれ一本ではなく、複数の線を同時に辿りながら進んでいけるようになっている。
 この小説にミステリーとして足りない要素がもしあるとすれば、それは「名探偵」だ。「謎解き」役は存在するのだが、読者と歩を合わせるようにして前に進んでいく推理のやり方なので、その人物が「探偵」であることを意識する瞬間は少ないはずだ。作者は「謎」それ自体が魅力であることを重視し、それが解かれる形式にはこだわらなかったのである。
 少し脱線する。乱歩賞の選考委員にも名を連ねている都筑道夫が評論『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(晶文社/増補版はフリースタイル社刊)で名探偵復活論を唱えたことに対して佐野洋がキャラクターとしての名探偵は不要であると反論し、いわゆる「名探偵論争」が起きたのは1977~78年のことだ。つまり当時はまだ、「名探偵」の必要性を主張する者のほうが少数派だったのである。都筑・佐野の論争は結果らしい結果を出せずに終結するが、そこで論議された内容は1980年代の終りにデビューした〈新本格〉の書き手たちに大きな影響を与えた。その先輩格であった岡嶋は、当然のことながら「名探偵論争」の存在も、その議論が持つ意味についてもよく理解していたでしょう。だからこそ『焦茶色のパステル』で岡嶋は「探偵」を一個の人格に付随した役割としてではなく、謎の解決のために必要不可欠な「機能」としてとらえたわけです。
 探偵は存在することが大事なのではなくて、謎解きを段階的に、読者にとって理解のしやすい形式で行うためにある。機能が果たされるのであれば、形式にこだわる必要はまったくない。本書執筆にあたって岡嶋がとった戦略はそういうものである(一個の人格として探偵があるということにこだわらないというのは、探偵に魅力がなくてもいいということではない。むしろその逆で、超越的な位置にはいないからこそ、謎解きに関わる登場人物は、人間としての魅力を持っていなければならない)。
 読者に対して強固な視点を提供するということと、この謎解きの形式の問題とは深いところで結びついている。一言で表すならば、それは読者と誠実な契約を取り交わすということだ。開かれた窓が確かで揺るがないと信頼していればこそ、読者は安心して謎解きに取り組むことができる。ミステリーのフェアプレイの精神をそうした形で読者の側からの論理で再構成し、確立してみせたのが、1982年の時点における岡嶋二人の最大の功績だった。岡嶋の小説作法は「本格」と呼ばれるタイプの謎解き小説が備えていた既存の型にはとらわれず、その理念や要素を現代的にアレンジしたものである。小説を形式から解放し、さまざまなバリエーションが書かれる糸口を作ったものとして『焦茶色のパステル』は高く評価されるべき作品だ。宮部みゆきを筆頭格として現代ミステリーの第一線で活躍している書き手たちは、みな岡嶋作品からなんらかの影響を受けているのである。
 謎が解かれる過程だけではなく、謎そのものの分析もこの作品では行われている。いくつもの着想から成り立っている謎であり、その中身はだいたい三層に分けて考えることができる。一つは、事件の起源である。二人と二頭が射殺されるという事件は、そもそもなぜ起きてしまったのか。第二は、犯人の作為である。どのようにして事件を起こし、そしてそれを隠蔽(いんぺい)したか。いわゆるトリックと呼ばれる謎は、ここに含まれるだろう。そして最後に、事件を謎めいたものに見せている状況はいかにして作り出されたか。状況は必ずしも作為の結果ではなく、偶然の産物としても生み出てくる。先に挙げた隆一の不可解な言葉などは、こうした偶然の産物に数えることができるだろう。こうして因数分解のようにして混合物を解きほぐし、それぞれの際立った特徴を読者の前に開陳してみせる作業こそが、本書における「謎解き」なのである。
 本書よりも刊行は後になるが執筆順では先行する『あした天気にしておくれ』が、乱歩賞応募作では珍しい殺人の絡まないミステリーであることにも注目してもらいたい。現在では当たり前になったが、主要な題材として殺人事件を扱わない作品が低く見られた時代がかつては存在したのです。デビュー後の岡嶋は、たてつづけに誘拐テーマの作品を発表し「ひとさらいの岡嶋」なる、ありがたくない異名を奉られた。殺人と謎解きとを一揃いで考えるような硬直した思考ではなく、まず「ミステリーにおける謎とは何か」という前提を疑う思考が、この作家にはあった。岡嶋という解放者がいなければミステリーというジャンルには、現在のように百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の華やかな状況が訪れることはなかったのではないだろうか。

 まだまだ書きたいことはあるのだが、与えられた文字数をすでに大幅に超えてしまった。書誌と作者の情報について、必要最小限のものになるが、記しておこう。
 本書は作家・岡嶋二人のデビュー作であり、単行本は1982年9月に講談社から刊行された。その後1984年8月に講談社文庫入りし、2002年9月には同じ講談社文庫の〈江戸川乱歩賞全集14〉にも収められた。乱歩賞の同時受賞作である中津文彦『黄金流砂』との合本である。新装版の今回が、三度目の文庫化ということになる。本書以外の岡嶋作品については、巻末に著作リストがあるので参考にしていただきたい。
 なお、これまで岡嶋二人と一人であるかのような書き方で作者をご紹介してきたが、これは井上夢人(本名・井上泉)と田奈淳一(本名・徳山諄一)の共同筆名である。ニール・サイモン原作の戯曲・映画「おかしな二人」をもじったものだ。井上は1950年生まれ、福岡県出身、田奈は1943年生まれ、東京都出身である。二人は1972年に初めて出会い、田奈の呼びかけで合作を開始した。ユニット岡嶋二人誕生から解散に至るまでの軌跡は井上が回想記『おかしな二人』(講談社文庫)にまとめているので、ここでは敢えて繰り返さない。簡単にいえば二人の役割分担は、田奈がもっぱらアイディア創出で、井上がその文章化であったという。チームプレイの実際に関心がある人は『おかしな二人』を読めばいいのだが、残念ながら同書では本の性質上、岡嶋作品のネタばらしが行われているので、未読の人は注意が必要である。
 すでにチームが解散して20年以上の歳月が経ったが、現代ミステリーを語る上ではその足跡を無視することはできない。本書の刊行を機に一人でも多くの新しい岡嶋二人読者が増えることを、そしてその功績に倣ってさらなる才能がこのジャンルから生まれることを、解説者としては切に祈るものである。