カレーうどんの呪い

我孫子武丸

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 ある夜中の電話。
「はい、井上です」
「あ、もしもし、アビコですけど」
「アビコ君? 元気?」
「ええ、体の方は元気なんですけど……マシンの方がおかしくて」
「どういうふうに?」
「ディスプレイに映らなくなったんですよ。周波数が違うとか言われちゃって。別のディスプレイをつないでも駄目なんで多分本体がおかしいんだと思うんですが」
「そりゃーバイオスがいかれちゃったんじゃないの?」
「はー、バイオスですか」
「修理してもらわないとしょうがないね」
「そうですか……」
(その後延々2時間以上雑談が続く)
 
 ある電話2。
「はい、井上です」
「あ、もしもし,アビコですけど」
「ああ、その後どう」
「いや一応本体は直ったみたいなんですけど、ジップドライブを買ったら全然認識しなくって、ドスに降りてみたらパリティエラーとか言われちゃって……」
「そりゃスカジー回りじゃないかなー」
「はー、スカジーですか」
「本体ごと持っていって見てもらわないと駄目じゃない?」
「……そうですね」
(その後延々雑談)
 
ある電話3。
「はい、井上です」
「あ、もしもし、アビコですけど」
「ああ、お久しぶり……でもないか」
「あのですね、キューゴーをインストールしたんですけど、エクスプローラーが使いにくくって、なんかいいファイラーないですかね」
「それだったらタックとかいいんじゃないかな」
(その後3時間ほど雑談)
 
 いかがだろうか(って言われても困るか)。
 右の会話は実際に交わされたものの正確な記録ではないが、大体いつもぼくと井上夢人さんの間に交わされる会話の典型的なものではある。
 これだけの会話からも、色々なことが読みとれるはずだ。
1、井上という人はコンピュータか何かに詳しい人らしい。
2、アビコという人は井上という人を頼りにしている。
3、こんな他力本願な奴を何度も相手にしている井上という人はよほど人がいいらしい。
4、二人ともおそろしくおしゃべりで、夜型で、どうも堅気ではないらしい。
 
 見事に、当たっている(当然か)。
 それはともかく。
 
 井上夢人は(解説らしくここからは敬称略で)、短い会話や文章で様々な人間模様を鮮やかに浮かび上がらせるのを得意としている。それは特に本書の最初におさめられている「ホワイトノイズ」などに顕著に現れているはずだ。ぼくが同業だからかもしれないが、「ホワイトノイズ」の主人公が短い会話から一瞬で話者の人生を読み取ってみせるような場面は、井上夢人という作家が人生を切り取って会話に仕立てるのを逆に眺めているような倒錯した感じさえ覚える。
 ぼくがデビューする前、井上夢人──当時はまだ岡嶋二人としてではあったが──はぼくにとっては一つの理想であり、教科書のような存在だった。平易な文章、無駄のない情景描写、読者の予想を裏切りつつ期待にはちゃんと応えるツボを押さえた展開、そして巧みなキャラクター造形。すべてが理詰めで、そして一見楽々と書かれているかのように見えたせいで、ぼくは浅薄にも岡嶋作品を習字のお手本のように参考にできると思ったのだった。今ではそんな考えが甘かったということを痛感している。
 人間を描く、なんていう陳腐で時代がかった言葉は井上夢人には似合わない。アーウィン・ショーの気の利いた短編などと共通する「スケッチ力」が井上夢人には備わっているかのようだ。会話がうまい、というだけではない。主人公の些細な行動、おかれたシチュエーションなどが会話とあいまってくっきりとしたスケッチが出来上がる。シンプルで当を得たスケッチであればあるほど、リーダビリティも高まるし、映像的な喚起力も強くなる。
 ぼくは記憶力の決していい方ではない。読んでいる最中はどんなに面白くても、読み終わった途端、ほとんどの情報は頭から抜け落ちてしまっているのが普通だ。ところが時々、ごくまれに、ひどく些細な事柄なのに呪いのようにいつまでも頭に残り続けている描写というものがある。そういう呪いのうち最大のものが、まさに岡嶋二人=井上夢人によってかけられたものだ。
 その作品は、代表作にして岡嶋二人最後の作品『クラインの壺』。物語の始めの方で、主人公は鏡で自分の顔を見、前髪に昨夜食べたカレーうどんの汁がはねているのを発見する場面がある(ぼくはずっとシャツにはねたんだと思い込んでいたが、読み返したら違っていた)。ぼくはこの一連の描写を読んだとき、一瞬で主人公に感情移入し、同時に「なんてうまいんだろう」と思ったものだ。真似をしようと思って真似できるスケッチではない。たった一行のことなのだが、彼の生活が鮮やかに浮かび上がる。
 でもそれだけなら「呪い」とは言えない。「呪い」はその後、ぼくがカレーうどんを食べるたびに必ず──ほんとに必ず、だ──『クラインの壺』を思い出してしまう、ということにある。考えてもみて欲しい。ぼくはこの数年間、カレーうどんを食べるたびに頭の中で「あー、『クラインの壺』」と思ってきたのである。パラノイアである。さらにおそろしいことに、カレーうどんはぼくの好物の一つなのだ。おそらく『クラインの壺』のことを頭に思い浮かべた回数では日本一ではなかろうか。この先何回『クラインの壺』のことを思い出すことになるのだろう。
 ──ちなみに、ぼくが好きなのはゆでたうどん玉にそのままカレーをかけたような奴で、普通のうどん屋ではそういうのはあまり見かけない(たいていだしが混ぜてある)。「なか卯」という牛丼チェーンのカレーうどんがそれに近くて、結構お気に入りである。そういうどろっとした奴ほどよくはねるから、主人公が食べたのもそういうのだったかもしれない。
 話を戻そう。
 周知のように、岡嶋二人というのは徳山諄一と井上泉(後の夢人)という二人の人間による合作ペンネームであり、岡嶋の才能のすべてが井上夢人のものであるかのように言うのは間違いだろう。ただ、岡嶋二人というプロジェクトが井上夢人という作家を育て、生み出したのはまぎれもない事実であり、井上夢人が岡嶋のすぐれた部分をすべて吸収・消化してしまっていると感じているのはぼくだけではないはずだ。
 岡嶋二人について書いたノンフィクション・ノベル(?)である『おかしな二人』を読むと、その共同作業の様子が書いてあるのだが、やはり二人の人間の合意によって書き進められる以上、一人が面白いと思ってもそれがすぐに作品化されるわけではないのだということがよく分かる。それは水準以下の作品を世に出さないというストッパーとしての役割を果たす一方で、お互いの個性を殺し合うことにもなったように見える。もちろんその中から傑作も数多く生み出されたのだが、それらの傑作はふたりの才能が溶け合ったというよりも、どちらかがもう一人を強硬に押し切る形で生まれたものが多いのではないかと邪推している。
『クラインの壺』が井上夢人作品と言って構わないのは『おかしな二人』を読めば分かることだが、一方怪作『眠れぬ夜の殺人』や『ビッグゲーム』などは徳山色が強いものではないだろうか。それらを傑作と思うかどうかは人それぞれだろうが、ある種のパッションがあるのは否定できないと思う。そういったパッションが二人の間でやり取りがなされるうちに萎んでしまい、無難にまとまってしまったケースも多かったのではと想像する。
 岡嶋二人は井上夢人である。でも、井上夢人は岡嶋二人ではない。岡嶋二人はもちろん素晴らしい作家だったが、実のところぼくは、岡嶋二人より井上夢人の方が好きだ。たとえパソコントラブルの相談に乗ってくれなくても。
 
 ところで井上さん、メールソフトの使い方でよく分かんないところがあるんですけど──。