解説

遠藤 諭

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 井上夢人氏は、コンピュータやネットワークの便利さや面白さを、なんの気負いもなく取り入れて活用してきた作家だと思う。もちろん、小説の中の小道具としても登場しているのだが、ただの創作活動のためのペンや机とおなじ本当の道具としてである。そんな、コンピュータのちょっと先輩である井上夢人氏が、これからはじまる「デジタルの時代の気分」を書いてくれたのがこの『パワー・オフ』ではないかと、私は思う。
 その「デジタルの時代の気分」というのは、ちょっぴりいい感じのものである。
 『パワー・オフ』は、一年前に富士通のFMV(高倉健がテレビコマーシャルに出ているパソコン)を買ったばかりというオヤジとか、電子メールがやりたくてNECの液晶パソコン(中山美穂がテレビコマーシャルに出ているパソコン)を買ったというOLさんとかからもそれほど遠い世界で起きている出来事ではない。さすがに、「コンピュータ・ウィルス」や「人工生命」(A-LIFE)といったものが題材になってきているから、洗面台や会社の上司ほどには日常的に接するものではないかもしれないが、それとて、新聞記事に目を通している人なら、言葉くらいは聞いたことがあるというようなものがほとんどである。というか、現実のいまの日本のパソコンやネットワーク関係の世界で使われている言葉や議論されている事柄が、その同じテンションで使われているところがよいと思う(実は、この小説が書かれた1994年頃からはかなりの時間が経過しているはずなのだが、不思議なことに、これにかかわっている人間がやっていることや日々考えていることは、あまり変わっていない)。
 いずれにしろ、これが、「宇宙紀2048年、銀河系某地球型惑星」などというところからはじまったていたら、「デジタルの時代の気分」というものでもないだろう。
 登場人物の口をついて出てくる言葉も、パソコン業界のどこかで隠し録りされたものをそのままテープ起こしして、まとめたものではないかと思えるくらいのリアリティがある。とくに、ネットワーク関連の仕事をしている人なら、おもわず小膝をたたいてしまいたくなる言葉ややりとりが何カ所も出てくる。

 ほんの数年前、コンピュータ・ウィルスについてのニュースがさかんに報じられていた最中、テレビ局に「ウチの息子がパソコンでゲームをやっているが、コンピュータ・ウィルスが息子に感染する危険はないのか」と問い合わせた主婦がいたそうだ。これは、業界の笑い話として記憶されている。しかし、笑えないのは、そのときのテレビ局側の応対だった。テレビ局は、その問い合わせにちゃんと答えられなかったのだ。「さあ……担当の者に聞かなければわかりません」と返答したというのである。

 これなどは、本当にパソコン業界ではよく知られたエピソードである。
 とはいえ、そうやってコンピュータ・ウィルスなどというものが社会的に認知されるようになり、パソコンやネットワークを使う人が増えていくうちに、デジタルというものに対する人々のとらえ方というものが少しずつ変わってきたのではないかと思う。

 1と0(2進法の2つの数字)。
 オンとオフ(電気回路のスイッチが接している状態と離れている状態の意味)。
 真と偽(論理演算の2つの値)。
 コンピュータ=デジタル(正確無比で電光石火の計算をこなすけれど、まるで融通が利かない)。

 そういえば、先日で映画化された往年の空想科学テレビ番組『宇宙家族ロビンソン』のフライデー(ロボット)は、いざとなると「計算できません」としか答えなかった。
 こうした「カタブツ」としてのコンピュータのイメージは、まだ、コンピュータが小さな家ほどもある巨大な金物(コンピュータの世界では機械それ自体のことを金物=ハードウェアと呼ぶ習慣がある)だった時代のものである。それは、一年中一定の室温で保たれ、なぜか入り口はきまって『スタートレック』のエンタープライズ号の中であるかのように電動のスライド式のドアになっているコンピュータ室に鎮座していた時代。IBM 370とかFACOM M-380とかUNIVAC 1100といった仰々しい名前の大型コンピュータたちが、たいていは無個性で画一的な計算処理を、せっせと大量生産的にこなしていた頃のものである。
 それは、まだどちらかというと20世紀以前の化石燃料と熱力学と動力の世紀の余韻を残していた。
 コンピュータとは、私たち一般市民からは、ほど遠い存在で、触ることができるのもごく一部の限られた人たちで、コンピュータそのものも、とてつもない輝かしい科学の勝利を象徴する創造物としてとらえられていた。そして、いかにも非人間的で国民総背番号制的で、柔軟性に欠け、○か×か、無味乾燥な答えしか出せないものと思われていた。
 おそらく、この「カタブツ」としてのコンピュータのイメージが壊され、コンピュータを使う人が、そうでもないのではないか? と感じはじめたのは、本当に、20世紀末も押し迫ったここ数年のことではないかと思う。

「僕のイメージだと、やっぱり生命体ってのはアナログじゃないかって思うんだよ。でも、コンピュータの中のA-LIFEはデジタルだよね。どう考えても、デジタルが生命を作るとは思えない」
「あら」と瑞穂は目を瞬いた。「あたしたちだって、デジタルな作られ方をしているのよ」
「…………」
 見返す智之に、瑞穂はうなずいてみせた。
「どういう意味?」
「そのままの意味」
「僕ら人間がデジタルだっていうの?」

 平石瑞穂と夫の智之のやりとりである。
 これは、そのままいまコンピュータやネットワークを使っている人たちの頭の中で起きはじめている小さな葛藤ではないかと思う。
 瑞穂がこの後で説明しているように、人間の作られ方がデジタルであること――遺伝子がデジタルな記録であることは、もう半世紀も前に知られている。
 もともと、人間が機械として説明できるものではないかという議論は、相当に歴史の古いものだろう。新しいところでは、生命のシステムを工学分野に取り込むことを提唱したノーバート・ウィーナーには『人間機械論』という歴史的名著があるし、いまのコンピュータの生みの親ともいうべきフォン・ノイマンは、その著書の中で「生命とは情報のプロセスにすぎない」と述べている。
 ただ、それはそうと理解されてはいても、とても人間の生命活動そのものがデジタルであるとは考えにくかった。
 それが、少しずつ事情が変わってきた。
 コンピュータ・ウィルスや「育てゲー」(たまごっちのように、コンピュータの中の仮想的な生物を育てるゲーム)のようなものもあるが、「人工生命」(A-LIFE)や「遺伝的アルゴリズム」(GA)といったコンピュータ・サイエンスのテーマとして、生命現象に踏み込むことがされはじめたのである。
 そればかりではない、その間には、脳ミソを構成する神経細胞も、デジタルで電気的なデバイスであることが示されてきた。人間の脳細胞は、10000の入力を受け入れて軸索という一本の配線に、一定の電位のパルスをどのような間隔で何個送り出すかというメカニズムのものだというのだ。
 『パワー・オフ』で、最後に起きたようなことが、現実のものとなる日がくるのかもしれないと言えそうな気配なのである。
 そのときは、いま使われているようなコンピュータのソフトウェアはすべて陳腐化することになるだろう。それは、ひょっとしたらいま私たちがコンピュータや電子機器としてとらえているようなものとはまるで違ったガジェットとして、あるいは、まったく想像も付かない新しい概念として、生活の中に入り込んでくるのかもしれない。というよりも、同じデジタルなシステムである人間とコンピュータが真にコラボレーションする、人類にとってまったく新しい世紀が訪れる可能性すら秘めている。その時代が本当の「デジタルの時代」だと思う。
 井上夢人氏は、コンピュータやネットワークを、けっして大げさにではなく現実の距離感でとらえている。インターネット上で発表しているハイパーテキスト小説『99人の最終電車』も、サラリと道具としてウェブの仕組みを手中にしているとおりである。
 この「デジタルの時代」も現実のコンピュータやネットワークの延長として予感させてくれたわけだ。
 「そんな時代がくるかもね」と、コンピュータのキーをパカパカとたたきながら、そのキーをたたくリズムの数百ミリ秒の間に感じたりするのが「デジタルの時代の気分」なのかもしれません。

(月刊アスキー編集長)